よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

福井市を焼きつくした福井大空襲

『福井大空襲体験画集(第三集)』編集・発行者 林正夫

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

※ここで紹介した体験画は一部です。

本願寺福井別院(西別院)周辺における悲惨な状況の詳細は、

下記の『福井空襲・午前一時』稲木信夫著をご覧下さい。

 

門徒にお聞きした福井空襲の体験
門徒のお宅にお参りをすると、さまざまな人生体験をお聞きすることがあります。
そのなかでもある女性から聞いた福井空襲の体験談が忘れられません。その方の実家は福井市松本で本願寺福井別院のすぐ近くです。

本願寺福井別院はおそらく焼夷弾(しょういだん)が最初に投下された場所だろうと推測されます。無差別絨毯爆撃(むさべつじゅうたんばくげき)で福井市は火の海になりました。夏のことですがら遺体の腐敗も激しく異臭が漂っていたようです。

 

体験談要旨
福井空襲の時は5歳、家族から玄関のつんばり棒を外すように言われた。防災頭巾はなんの役にもたたなかった。大勢の人が郊外に向けて逃げた。逃げるときは遺体を踏み越えて逃げた。

途中で家族と別れてしまったが後で会うことができた。自分から数人後ろに宝永小学校で給食を作っていた女性の方が、子どもをおんぶして逃げていたが子どもが死んでいることに気づかずに、必死で逃げていたことを覚えている。

現在の西別院の一角(尾上公園)の場所に小さな川があったが、そこにふとんを被って逃げて亡くなった人が多数いた。現在の尾上幼稚園の場所に墓所がありその場所で各所からトラックで、運ばれてきた遺体が焼かれ異臭が漂った。トラックは何回も遺体を運んだ。戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない。

 

幼いときに頭上から焼夷弾が落ちてきて火の海のなかを逃げた人の体験談です。5歳とはいえ鮮明におぼえておられる様子でした。「戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない」その言葉が強く胸に響いてきました。

私は当時福井教区講師団の一員でしたが、その体験を伝えることを約束し、いろんな資料を調べて2015年(戦後70年)に福井教区のさまざまな研修会や法座で、非戦平和の大切さを訴えてきました。私の両親は大正の生まれですが戦争で一番苦しい思いをした世代です。私たちの世代が語り継ぐべきものだと考えています。

 

※絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)とは絨毯を敷きつめるように、ある地域をすきまなく徹底的に爆撃すること。


総務省の記録 福井市における戦災の状況(福井県
1.空襲等の概況
昭和20(1945)年7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術が採られるようになった。

敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市の中で最も規模の小さい市であったが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていた。

当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれており市街地東部の河東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙の川にはさまれた川中地区にひろがり、2時間程の爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。

 

1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となった。B-29 127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落とされたのである。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市沼津市に次ぐもので、2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人を超える被害となった。

 

県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練が行なわれていたが、大規模な都市爆撃の前にはまったく無力で、すでに日中戦争では、日本軍によって重慶などを目標とする都市爆撃が行なわれており、非戦闘員をも区別なく、戦禍に巻き込む近代戦の悲惨さを県民は目の当たりにすることになったのである。

 

その後敦賀市には、小規模であったが30日、8月8日と2度の空襲があり、特に8日のものは、9100メートルの高空から、昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した原子爆弾の模擬弾であったことが、後に明らかになった。

 

www.soumu.go.jp

『福井空襲・午前一時』稲木信夫著より
 
空襲第一弾が、西別院にもおちたという。

やはり、前の川で死者がおおくでた。神明神社のばあいといかにも似た事情がある。ただ、ここでは、市の郊外へ逃がれようとした人びとが、ようやくここまでたどりついて、川へはいったというばあいもくわわっている。
寺をこすと、田んぼなのである。だが、その人びとは逃げられなかった。西別院の諸堂は炎上していた。あの表門ももえていたのかもしれない。いくらひろい境内でも、焼夷弾が雨とふるなかでは安全ではない。うろうろしていてはかえってあぶなかった。神明の森のようなものはなかったのだ。といって、寺の横をとおりぬけることもむずかしかった。町一帯がはやくも火となっていたからだ。
 
当時、その西別院に僧侶としてすごしていた川口政信さんは、西別院駅の北側の田んぼの、欅の木の四、五本ならんだところに、布団一枚をかぶってのがれ、そこに空襲がおわるまでいた。川口さんは、仏さんをはこびたしたり、自分の持ち物があきらめられなかったりして逃げおくれたほうであったが、寺のうしろへ逃げたし、また逃げるほかなかったのである。
 
その川口さんは、寺の前で死んだ人びとの数を、二、三十人以上と話す。

これについては、寺島定志さんの記憶では、いくらすくなくみても、四、五十人はいたという。

内宮(うちみや)はまをさんは、大名町の家からふたりの娘さん、十六才の茂子さん、
四才の清子ちゃんと西別院へ逃げて来た。大名町は市の中心にちかい。ふつうにいえば、西別院よりも、西方の東別院をめがけたほうが逃げやすいのだが、内宮さんは家業がはき物の卸し商で、西別院のうしろの野っ原に店の倉庫があったのである。

かねての打ちあわせがあってか、それともその方角に火の手があかって心配してか、わざわざ距離のあるところを行き、どうぞこうぞ西別院の前まで来た。寺はもえている。そこで、その横手へ行こうとした。しかし、そのあたりも火だ。
 
するとそのとき
「そんなところへ行ったらあかん、こっちへはいんなさい、こっちへ」
という人声をきく。川にかかった門のまえの橋の下から呼んでいる人がいる。
 
川といっても、そこは三、四尺の巾、ドブ川で、わずかな水があったが、ながれてはいない。それでも、はやくはやくと必死に呼んでくれている。
 
内宮さんはこわかったが、ちゅうちょする間もない。呼び声にひかれて、ふたりの娘さんがさきになって、わずかなすき間のようなところへはいっていってしまった。いまはともかくそこへ身をかくすのがよいかもしれなかった。僑の巾は三間以上はあったろう。内宮さんも娘さんにつづいて、もぐるようにし
てはいった。

その瞬間、直撃弾がおちた。
かあちゃん
内宮さんは、娘のそのひとことをきいたように思う。
まったくの偶然に、あとになってはいった内宮さんだけが奇跡的にたすかった。朝になって、ふたつにわれて、くずれた橋の下になりながらも、ふと意識がもどったのである。
 
その内宮さんは、この橋の下だけで三十八人死んでいたと話している。内宮さんのふたりの娘さんもその中にはいっている。
 
中田石男さんは、国民学校六年生。夏休みをまえに、ひとり郊外のおばの家に一泊。遊びにいったこの晩に空襲があった。
中田少年は。焼け跡にもどり、神明神社の前でピラミッドになった死体の山を見たが、父毋たちの姿をさがしてさらにひきかえし、西別院へ行った。一家にめぐりあえず、寺の前の川にそって、川にちらばった人びとの死体を見やりながらあるいていた中田少年の思いは、そのときどのようなものだったろう。
ふと、彼はたちどまった。川の中に焼けたトタンがふきとんできていて、そのしたに、見おばえのあるカバンと着物がちらっと見えたのだ。さては、と思い、トタンをはぐってみた。はたして、二才の弟をおぶった毋と四才の妹をおぶった父の姿があった、四人がかたまって死んでいた。傷はなかった。トタンがもろにあたっだのかもしれないが、やはり煙りによる窒息死であったろう。
父中田棯三十六才、毋ちよの三十四才、妹信子、弟勝利。

東郷千代子さんも、家業ははき物屋で、当時江戸下町西組(現在、宝永四丁目)と呼ばれたところに店をかまえている。
一家は九人家族。十四才から赤ちゃんまで、男女三人ずつの六人の子どもがいた。そしておばあちゃんがいた。
なかなか借りにくかった荷車がようやく手にはいって、あすはその荷車に家財をつけ、さしあたっておばあちゃんと子どもたちを疎開させようという、その夜の空襲であった。
その夜、おばあちゃんのフサさんは、かわいい孫の一郎(十二才)、二郎(六才)のふたりをつれて、西別院のほうへ逃げた。千代子さんは、残った四人の子とともに、そのあとにつづき、西別院のうらの田んぼめざして逃げた。ご主人は、町内会長をしていたので、あとに残った。
毋千代子さんについて逃げた十四才の登美子さんは、そのようすをこう話す。登美子さんは三才の弟の手をひき、となりに妹がいる。
「ほんとにそのときはね、空を見ると、もう、雨のようでしょう。焼夷弾がぱあ-つと落ちてきたのが、ぱっとひろがって落ちてくるんです。ほれがもう、ザーツ、ガーツ、ザーツと。もう、音にびっくりしちゃって。すごい音でした。……西別院の前まで行ったんです。そのうちに、学校でならった、『伏せる時にはこういうふうにするんですよ』つていわれてたのを思い出して、『ちょっと、伏せなあかんわ。こんなに大きな音して、もう、気持ちわるいわあ』ちゅうて、ちょうど西別院の前の、あの、前門(表門)つていうんですかね、門の、あそこで伏せたんです。あの、そしたら、そこにぱあ-っと降ってきたんですね、焼夷弾が。んで、妹が、となりで直撃をうけたわけなんです。」
たまたま「伏せ」をした妹の米子さんに、直撃弾がおちた。たちまち米子さんは火だるまになり、頭のほうから、防空頭布の上からもえだす。即死である。
このとき千代子さんも頭に油をあび、たちまちやけどをする。びっくりして、まだもえていなかった門前の家の中にかけこむ。その家の人もいて、そこで布団を借りる。娘さんたちの手をとり、布団をかぷり、ふたたび外にでる。そして、なんとかして寺のうしろへ行こうとする。あいつぐ焼夷弾。ひろがる火の中を夢中でつっきる。
ご主人は、ひとり一歩おくれて西別院へむかう。すでに火はひろがっていたが、道のりにくわしかったこともあり、行くところどころの家の中をかけぬけて、火の中を通らぬようにして逃げた、そして、西別院のうらで、やはり火の中をつっきった千代子さんらとうまく出会う結果となる。
しかし、いちはやく逃げたおばあちゃんと二人の息子さんは、たすからなかった。朝になって探しにでた東郷さんたちは、やはり寺の前の川でいっぱいの人が死んでいるのをしらべていく。そして、水ふくれになって。ひとりたおれているおばあちゃんの姿を見つける。つづいて、そこから二、三間はなれた川の中で、息子さんの一人を見つける。もうひとりの息子さんは、それからまたさがして、西別院の境内の防空壕で、死んでいるのを見つける。
 
おばあちゃんが西別院のほうへ行ったのは、日頃お詣りをかかさなかった人だけに、そこへ行けばたすかると思っていたのではないか、と東郷さんは推測する。だが。この三人が、まるでばらばらだったのはなぜだろう。
うえの息子さんは子どもながら体がおおきく、力があり、すもうがつよかったという。そこで、三人いっしょに家をでたが、自分ははやく逃げたいけれど、おばあちゃんがいる。
それでも、寺の前に来たときには、すこしはやくなり、境内にはいってしまっていた。一歩おくれたおばあちゃんと下の息子さんは、そのときなにかの都合で境内にはいれず、そのまま川の中へはいった。下の息子さんは六才で、おばあちゃんからはなれられず、いっしょになった。そしてすぐそばに直撃があったかもしれない。下の息子さんはふきとばされたのだろう。

中学生宮崎肇さんは、空襲がはじまってすぐ、爆弾がおちてくる中を、妹とふたり、西別院の前の通りへでる。通りはちょうど押すなおすなの人であった。
ふと見つけた、寺と寺のあいだの、ニメートルぐらいの幅の通路が、宵崎さんをたすけた、まだもえていない。その通路をぬけて、うらの田んぼにでたのである。そこでも焼夷弾がおちてくるので、もう必死になって畷道をかける。
ようよう安全と思えるところまできて、まもなく、一時はなれてしまった妹と会える。
父もくる。
だが、毋がこない。母はまだ赤ちゃんの妹をおぶっているはずである。
不安の中で夜が明ける。焼け跡へはいると西別院はすべて焼けおちている。くずれたところからパチパチと炎がたっている。
寺の前あたりまでくると、道にやけどをした人が二、三人寢ている。そのうちの一人が。
だれかの名まえを呼んでいる。ちかずいて顔を見たが、母ではない。
そうこうするうち、西別院の裏門へきた。裏門と呼んだ門は、表門とならんでいて、いわば通用門のことである。
くずれおちた門のなかに四本の鉄の棒がつっ立っているのが見えた。
「あれは……」
と宮崎さんの父は見すえて。
「乳母車じゃないか」
とさけんだ。乳母車の残骸の鉄材の骨組みだけがある。しかも、たしかに父が自分で修理した針金もついている。まちがいなく家の乳母車だ、と父は見たのだ。
「そうかもしれん、はいってみよう」
と、みんながまだすこし熱いのをがまんして、二、三歩中へはいった。まちがいなく、家の乳母車だった。そこに、黒こげの姿があった。のっている瓦をよけていくと、まぎれもなく母がでてきた。母はあおむけのまま、まったくもえきっていた。その背の下に、足だけがもえて、着物がそのまま残っている妹の体があった。上にのっていた人が母であることは、そのふたりをむすびつけていた帯のかけらがあったことでまちがいなかった。
直撃があったのだろうか。母のさだをさんは、乳母車の手をはなして、二才の勢津子ちゃんともどもあおむけにたおれた。そこへ、裏門の屋根がくずれてきた。……それにしても、なぜ乳母車をひいて逃げたのだろう。その中に何かをいれたのだろうか。さだをさんの心をどうわかってあげるべきだろうか。

 

 

終わりに

7月19日は福井空襲の日です。
日本全土にB-29爆撃機による焼夷弾の無差別絨毯(じゅうたん)爆撃が繰り返されました。
福井空襲においては本願寺福井別院も爆撃され地獄絵のような様相でした。
現在ウクライナにおける戦争は他人事ではないように思います。

ダンマパダ129  
ブッダの真理の言葉・感興のことば』中村元訳 岩波文庫
すべての者は、暴力におびえ、
すべての者は、死をおそれる。
己が身にひきくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)784頁
御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ



『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著を読んで

6月23日
太平洋戦争の終わりの頃
沖縄は日米の最後の決戦地になり
多くの民間人が犠牲になりました

『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著
「二度と私たちのような戦争体験をしてはならないのです」
戦争は人間を人間でなくしてしまうのです
「日頃の常識はまったくなくなってしまいます」
「軍隊は住民を守りません」
「年寄や子供たちのように弱い者ほどひどい目にあうあのです」

ひめゆりの女学生たちが学校生活を送った校舎前には
相思樹の並木が続いていたそうです

戦争は最大の暴力
二度と戦争をしてはいけません
そんな思いを新たにしました

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御文章のはなし

五帖一部御文章 
本願寺派寂如宗主の貞享元年(1684)開版本
各帖の巻末には宗主の名と花押があります

この地域には同時代の御文章がよく見受けられます
各家に仏壇を安置するようになった頃と同時期です
時代区分でいえば江戸時代の元禄時代
徳川幕府の宗教政策の影響も多分にあります

写真の通り和綴じの本ですが
手で持つ部分 指でめくる部分が 
ボロボロになり かなり汚れています

日夜 田畑を耕す手で持つのですから
当然汚れます
200年間ほど 毎朝 毎夕読めば
このようになるのでしょう
この紙の汚れを土垢(つちあか)とよんでいます

これは長年読んできたあかしなのです

法務をはじめた頃 各家にはこのような御文章が置いてあり
各家によって 字体も異なり 何が書いてあるのか
まったく読めないことがよくありました

福井県史 通史編2』 
各種の教典類のうちでは冊子形態の御文が最も汚れている。
各頁の左右の端には、必ずといってよいほど手垢・土垢が付着しているからである。「土」とともに生きた当時の坊主衆・門徒衆がじかに手にした教典、それが御文だったのである。

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正覚寺と太平記

里見時成

福井県坂井市丸岡町にある称念寺では、
今年 新田義貞の686回忌の法要を勤めるようですが、
新田義貞とともに越前に逃れて、金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをした、
正覚寺ゆかりの武将、里見伊賀守時成も686回忌になります。

伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。

幼子が討手を逃れ片上の地にかくまわれ出家し、禅宗の草庵をつくったのが後の正覚寺です。

父親や親族たちの壮絶な討ち死にを目前にして成純は、
怨憎を超えてさとりの智慧をうる仏道を求めたのだろうと思います。

争いのない、怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝える、それが正覚寺が創設された所以でしょう。

今の世界にも争いが絶えません。怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝えていきたいと思います。

 

2023.09.27追記
里見成純と勢至丸

私は里見成純と幼少の頃の法然聖人の体験が重なるように思います。

法然聖人は幼少の時の名は勢至丸といいました。
平安時代末の保延7年(1141)、勢至丸9歳の時、稲岡庄の預所(荘園の管理者)をしていた父の漆間時国は、明石定明の夜襲にあい亡くなってしましました。

父の時国は死に臨んで次のような遺言をしたといわれています。

私はこの傷によって死んでいかねばならない。しかし、決して敵を怨まないでほしい。
もし、おまえが敵を討つならば、親から子と憎しみの連鎖は絶えることはないだろう。
私が死にたくはないのと同じように、いのちある者は誰でも死にたくはないだろう。
私は傷つけられると痛いと思う。人もまたそう思うだろう。
私はこのいのちを大切だと思う。人もまたそう思うだろう。
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息むのだということを心に刻んでほしい。
そして怨みの心をすてて、ともに救われる仏道を歩んでもらいたい。
それが私の願いだ。

 

ダンマパダ5
実にこの世においては、
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、
ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。

里見時成については

太平記 越前府軍並金崎後攻事』に記されています
その他には日本通信百科事典など

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https://wiki3.jp/japan_dictionary/page/2099

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噫(ああ)花よ

境内の椿

噫(ああ)花よ

椿の花がこんなに
美しいものだとは知りませんでした

今まで約45年間 
仕事(兼職)と介護に追われ
ただ ただ 
がむしゃらに生きてきました

与えられた役職は
できるだけ断らずに引き受け
ほとんど年中無休の状態で
花を見るゆとりもありませんでした

健康を害し 
体力も気力も衰えた今ですが
花を愛でていると
心が落ち着くし 

何の脈絡もなくお聖教の言葉が
思い浮かんできます
不思議なことで、
なぜだか自分でも分からないし 
説明もできません
花の前で呆然(ぼうぜん)としています

機縁が熟したとしか
いいようがありません

SNSでは
花や小動物の写真ばかり投稿して
疑問に思われると思いますが
私の耳底には
お念仏の声が聞こえてくるのです

それも言葉では説明できないし 
なぜだか分かりません 
不可思議です

できることならば
役職も肩書きもすべて辞し
お念仏に導かれながら
残された日々を一日一日
丁寧に生きたいと思うだけです

どうぞ
お許しをいただきたいと思います

合掌

 

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桜の木よ ありがとう

福井県鯖江市西山公園のソメイヨシノ 2023.02.17

2月の鯖江市西山公園

1本のソメイヨシノ
かなりの老木のように見えました
近くにはコモを巻いた木もあります

見ていると痛々さも感じてきて

聲(こえ)をかけたくなりました

桜の木よ
今までよく風雪に耐えてきたね
毎年きれいな花を咲かせてくれて
ありがとう

花の咲いていないときにこそ
桜の木そのものの美しさを愛でたい

リンゴ農家の木村秋則さんは
よくリンゴの木に声をかけてています

樹木や花にも聲(こえ)をかければ
伝わるのではないかと思っています
樹木や花もまた語りかけてきます
耳をすませば
その聲が聞こえてくると思います


ともに本願の大地に樹(た)つ朋(とも)だから

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花の聲(こえ)を聞く

ひっそりと咲くオウレン

オウレン
草丈数㎝・花径約10㎜ 

この花を撮るときは全身を曲げ
地面の上に顔を置くようにして撮ります
そしていつも思います

人間社会も最底辺に立たないと
踏まれた人の痛みの声は
聞こえてこないのだろうと

その声がカルナー・呻(うめ)きで
その声を聞こうとするのが大悲(だいひ)です

阿弥陀如来の慈悲をつかさどる菩薩を観世音菩薩といいますが
観世音とは世のなかの聲を聞き

心に思いうかべ観(み)て、心に思いうかべ知ろうとする菩薩です

衆生の呻(うめ)き声に共感するのが慈悲の心です

 

狭い山道の路肩にひっそりと咲くオウレンは
「踏まないでほしい!」と
つぶやいているように思います

聞こうとしなければ
なにも聞こえてきません
そのようなこともあり
アルバムの名前を「花の聲を聞く」としました

オウレンは
そんなことを教えてくれる花です

写真アルバムは下記Facebookをご覧下さい

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境内 泉水の四季

境内の泉水


この泉水の水は湧水(ゆうすい)です。池は落ち葉が堆積して以前とは浅くなりましたが、多くの生き物の水飲み場で自然のビオトープです。湧水は境内の小川に流れ出てやがて海に入り潮となります。海がいのちを循環させる力の源泉のようです。

親鸞さまの言葉には「海」が実に多く書かれてあるのも納得できます。

池の周辺には四季折々の山野草が美しい花を咲かせます。文殊山麓でこれだけの大きさの水場はないでしょう。

春になるとウグイスが鳴きますが、昨年は数ヶ月の間直近で鳴き続けていました。
春から初夏にかけて多くの渡り鳥が早朝からにぎやかです。モリアオガエルが産卵し卵塊をつくりますが、そのモリアオガエルを好むアカショウビンもやってきます。サンコウチョウの鳴き声も・・。

そして池の中ではカワニナが泥中に絵画を描きます。やがてホタルが飛び始め夏には蝉の大合唱。秋には色とりどりの紅葉・黄葉。そして冬には雪化粧。

泉水の周りはいろんなものが融け合った渾然一体(こんぜんいったい)の場所です。

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吉崎の時代 百姓の暮らし

百姓の暮らし

朝倉氏遺跡博物館には城下町を再現したジオラマがあります。
ジオラマを見ながら百姓たちの暮らしを想像しています。
当時の百姓とはあらゆる職業の人たちを意味していました。

蓮如上人が吉崎に来られたのは文明3年であり、朝倉孝景が勢力を拡大したのも同時期です。

吉崎と朝倉の歴史はリンクしているので、朝倉氏遺跡博物館のジオラマを通じて吉崎に集った人・御坊を建てた職人・多屋で商売をしていた人たちやその家族等の、暮らしをある程度想像することができると思います。もちろん寺内町と城下町のちがいはありますが。

福井県伝統工芸の歴史にも関係していると思います。

惣村が形成され農業や商工業も発達し庶民の権利意識も高まってきた時代でした。

詳しくは千葉乗隆先生の講義録を読んでください。職人写真の後に記載してあります。

 

千葉乗隆先生の講義
百姓という言葉は、中世と近世ではその意味が違っております。中世の百姓と申し
ますのは、まさにその言葉通り、百の姓、あらゆる職業の人達ということです。

村には農耕を営む人達とともに、大工・左官・鍛冶屋、漁をする人、商売をする人など、様々な職業に従事する人が住んでいます。それが百姓なんです。
ところが近世、江戸時代に入りまして、百姓と申しますと農民を指すことになります。


蓮如上人のお子さまの実悟上人が書いた記録に、加賀におきまして、本願寺門徒を中心とする一揆が、守護の富樫政親を倒して「百姓のもちたる国」になったと書いてあります。その百姓というのは、加賀に住むあらゆる職業の人達、全住民の参加する組織によって国の運営がなされるようになったという事です。


本文は福井別院で行われた講習会の内容を千葉先生が加筆訂正なされたもの

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朝倉氏遺跡博物館 人々の暮らし4

2022(令和4)年10月に開館した
福井県一乗谷朝倉氏遺跡博物館

館内展示物などをすこしずつ紹介します
今回は基本展示室 
城下町に暮らす人々の姿を再現したものです

 

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朝倉氏遺跡博物館 人々の暮らし3

2022(令和4)年10月に開館した
福井県一乗谷朝倉氏遺跡博物館

館内展示物などをすこしずつ紹介します
今回は基本展示室 
城下町に暮らす人々の姿を再現したものです

 

 

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朝倉氏遺跡博物館 人々の暮らし2

2022(令和4)年10月に開館した
福井県一乗谷朝倉氏遺跡博物館

館内展示物などをすこしずつ紹介します
今回は基本展示室 
城下町に暮らす人々の姿を再現したものです

 

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朝倉氏遺跡博物館 人々の暮らし1

2022(令和4)年10月に開館した
福井県一乗谷朝倉氏遺跡博物館

館内展示物などをすこしずつ紹介します
今回は基本展示室 
城下町に暮らす人々の姿を再現したものです

百姓の暮らし

朝倉氏遺跡博物館のジオラマから
百姓の暮らしを想像しています
蓮如上人ゆかりの吉崎と
朝倉の歴史はリンクしています
朝倉氏遺跡博物館のジオラマを通じて
吉崎に集った人、御坊を建てた職人
多屋で商売をしていた人たち等の
暮らしを想像することができます
百姓とはあらゆる職業の人たちということです

詳しくは千葉乗隆先生の講義録を読んでください
福井県伝統工芸の歴史も関係していると思います

 

千葉乗隆先生の講義
百姓という言葉は、中世と近世ではその意味が違っております。中世の百姓と申し
ますのは、まさにその言葉通り、百の姓、あらゆる職業の人達ということです。

村には農耕を営む人達とともに、大工・左官・鍛冶屋、漁をする人、商売をする人など、様々な職業に従事する人が住んでいます。それが百姓なんです。
ところが近世、江戸時代に入りまして、百姓と申しますと農民を指すことになります。


蓮如上人のお子さまの実悟上人が書いた記録に、加賀におきまして、本願寺門徒を中心とする一揆が、守護の富樫政親を倒して「百姓のもちたる国」になったと書いてあります。その百姓というのは、加賀に住むあらゆる職業の人達、全住民の参加する組織によって国の運営がなされるようになったという事です。


本文は福井別院で行われた講習会の内容を千葉先生が加筆訂正なされたもの

 

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46億年地球の道

2022年7月16日 
46年の地球に触れる勝山自然塾がスキージャム勝山に新登場 

46億年の歴史のなかで人類の歴史は何年だろう
大きなものさしのなかでは いろんなものが小さく見えます

赤く塗られた石はマグマの活動をあらわしています

現代から過去をふり返る

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瓦礫(がれき)の声

万葉館 福井県越前市余川町

文字丸瓦の解説

福井県越前市にある万葉の里味真野苑には四季の花がたくさんあり、多くの人を楽しませてくれます。

でも、その一角にある万葉館に収められている、丸瓦のことを知る人はあまりいないのではないでしょうか。

親鸞聖人750回大遠忌を記念して福井県で貴重な文化財の展覧会が開催されましたが、その時の記念誌『親鸞と福井、ゆかりの名宝 真宗の美』には次のように記載されています。

天正三年(一五七五)越前を制圧した織田信長は、越前中央部の支配拠点である府中に前田利家佐々成政・不破光治の三人衆を置いて地域支配と柴田勝家に対する監察の任にあてた。

小丸城は旧武生市街の東方約五キロメートルに位置する佐々成政の居城。
工事中に偶然発見された瓦で丸瓦二点に文字記載がある。前田利家一揆衆千人を生捕(いけど)り、張付(はりつけ)、釜煎(かまいり)などで成敗したことが記される。

別の一点には人夫を徴発したとみられる広瀬・池上の地名がみられる。いずれも瓦焼成前の粘土の表面に線刻されたものである。
文中の前田利家に対する敬語表現、流麓な書風、別の一点にみられる瓦製作に関する人夫役の記載、「この書付を見て後世に事の次第や結末についてあれこれ話をするように」と勧めていることなどからみて、府中三人衆の立場から越前平定の戦果を記録したものとみられる。

なお戦国畤代張付(はりつけ)・釜煎(かまいり)はしばしば行なわれた極刑で、その他鋸引(のこぎりびき)・串差(くしさし)などの刑罰も見せしめのため行われた(佐藤圭)

出典『親鸞と福井、ゆかりの名宝 真宗の美』真宗の美展実行委員会 2014

 

この文字丸瓦のことを最初に知ったとき、書かれている内容は処罰された門徒たちのことを思い、瓦職人がひそかに線刻したものだろうと思っていました。
しかしそれは『親鸞と福井、ゆかりの名宝 真宗の美』を読んで真逆のことだと分かりました。
府中三人衆の立場から越前平定の戦果を記録したものだというのです。


この瓦には戦国時代、一揆を起こした人たちに対して、言語に絶する凄惨(せいさん)な弾圧が行われたことが記されています。極刑に処された千人の人たちにも、それぞれの人生があったはずです。それぞれに大切な家族もいたのだろうと思います。なぜ一揆を起こしたのか知るよしもありませんが・・・。


歴史に名前を残していないような人々とともに生きようとされたのが、親鸞さまのような気がします。
親鸞さまは「いし・かわら・つぶてのようなわれら」と『唯信鈔文意』に書かれています。「石・瓦・礫(つぶて)」とは瓦礫(がれき)といわれるように、世のなかから価値のない者のようにみなされた、名もなき平凡な人(凡夫・ぼんぶ)を「われら」と呼ばれ、同じ仲間だといわれています。

一部の権力や権威のある人の視点ではなく、世のなかの底辺に生きる人たちの視点に立って、生きようとされたのではないでしょうか。「われら」の視点といってよいでしょう。

権力や権威とは対極におられたのが親鸞さまです。そのことは教行信証の後序(ごじょ)を読めば明らかです。

歴史は勝者・強者の視点で記されていることが多いのですが、社会の底辺に生きる平凡な人(凡夫)・弱者の視点で見ると、全く違う世のなかが見えてくるように思います。

正覚寺天正元(1573)年織田軍の兵火で焼失しましたが、それは朝倉氏が滅亡したときと同じ時だったのかもしれません。

 

天正元年8月18日 信長、府中龍門寺に着陣する。信長の先兵、一乗の谷中、屋形を始めとして、館々、仏閣僧房、一宇も残さず放火する。3日間焼くという。
出典 『越前・朝倉氏関係年表』203頁

 

 

「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかはらといふ。「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。
『唯信鈔文意』 浄土真宗聖典(註釈版)708頁

 

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