よもやま話

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福井市を焼きつくした福井大空襲

『福井大空襲体験画集(第三集)』編集・発行者 林正夫

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

※ここで紹介した体験画は一部です。

本願寺福井別院(西別院)周辺における悲惨な状況の詳細は、

下記の『福井空襲・午前一時』稲木信夫著をご覧下さい。

 

門徒にお聞きした福井空襲の体験
門徒のお宅にお参りをすると、さまざまな人生体験をお聞きすることがあります。
そのなかでもある女性から聞いた福井空襲の体験談が忘れられません。その方の実家は福井市松本で本願寺福井別院のすぐ近くです。

本願寺福井別院はおそらく焼夷弾(しょういだん)が最初に投下された場所だろうと推測されます。無差別絨毯爆撃(むさべつじゅうたんばくげき)で福井市は火の海になりました。夏のことですがら遺体の腐敗も激しく異臭が漂っていたようです。

 

体験談要旨
福井空襲の時は5歳、家族から玄関のつんばり棒を外すように言われた。防災頭巾はなんの役にもたたなかった。大勢の人が郊外に向けて逃げた。逃げるときは遺体を踏み越えて逃げた。

途中で家族と別れてしまったが後で会うことができた。自分から数人後ろに宝永小学校で給食を作っていた女性の方が、子どもをおんぶして逃げていたが子どもが死んでいることに気づかずに、必死で逃げていたことを覚えている。

現在の西別院の一角(尾上公園)の場所に小さな川があったが、そこにふとんを被って逃げて亡くなった人が多数いた。現在の尾上幼稚園の場所に墓所がありその場所で各所からトラックで、運ばれてきた遺体が焼かれ異臭が漂った。トラックは何回も遺体を運んだ。戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない。

 

幼いときに頭上から焼夷弾が落ちてきて火の海のなかを逃げた人の体験談です。5歳とはいえ鮮明におぼえておられる様子でした。「戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない」その言葉が強く胸に響いてきました。

私は当時福井教区講師団の一員でしたが、その体験を伝えることを約束し、いろんな資料を調べて2015年(戦後70年)に福井教区のさまざまな研修会や法座で、非戦平和の大切さを訴えてきました。私の両親は大正の生まれですが戦争で一番苦しい思いをした世代です。私たちの世代が語り継ぐべきものだと考えています。

 

※絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)とは絨毯を敷きつめるように、ある地域をすきまなく徹底的に爆撃すること。


総務省の記録 福井市における戦災の状況(福井県
1.空襲等の概況
昭和20(1945)年7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術が採られるようになった。

敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市の中で最も規模の小さい市であったが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていた。

当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれており市街地東部の河東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙の川にはさまれた川中地区にひろがり、2時間程の爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。

 

1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となった。B-29 127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落とされたのである。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市沼津市に次ぐもので、2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人を超える被害となった。

 

県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練が行なわれていたが、大規模な都市爆撃の前にはまったく無力で、すでに日中戦争では、日本軍によって重慶などを目標とする都市爆撃が行なわれており、非戦闘員をも区別なく、戦禍に巻き込む近代戦の悲惨さを県民は目の当たりにすることになったのである。

 

その後敦賀市には、小規模であったが30日、8月8日と2度の空襲があり、特に8日のものは、9100メートルの高空から、昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した原子爆弾の模擬弾であったことが、後に明らかになった。

 

www.soumu.go.jp

『福井空襲・午前一時』稲木信夫著より
 
空襲第一弾が、西別院にもおちたという。

やはり、前の川で死者がおおくでた。神明神社のばあいといかにも似た事情がある。ただ、ここでは、市の郊外へ逃がれようとした人びとが、ようやくここまでたどりついて、川へはいったというばあいもくわわっている。
寺をこすと、田んぼなのである。だが、その人びとは逃げられなかった。西別院の諸堂は炎上していた。あの表門ももえていたのかもしれない。いくらひろい境内でも、焼夷弾が雨とふるなかでは安全ではない。うろうろしていてはかえってあぶなかった。神明の森のようなものはなかったのだ。といって、寺の横をとおりぬけることもむずかしかった。町一帯がはやくも火となっていたからだ。
 
当時、その西別院に僧侶としてすごしていた川口政信さんは、西別院駅の北側の田んぼの、欅の木の四、五本ならんだところに、布団一枚をかぶってのがれ、そこに空襲がおわるまでいた。川口さんは、仏さんをはこびたしたり、自分の持ち物があきらめられなかったりして逃げおくれたほうであったが、寺のうしろへ逃げたし、また逃げるほかなかったのである。
 
その川口さんは、寺の前で死んだ人びとの数を、二、三十人以上と話す。

これについては、寺島定志さんの記憶では、いくらすくなくみても、四、五十人はいたという。

内宮(うちみや)はまをさんは、大名町の家からふたりの娘さん、十六才の茂子さん、
四才の清子ちゃんと西別院へ逃げて来た。大名町は市の中心にちかい。ふつうにいえば、西別院よりも、西方の東別院をめがけたほうが逃げやすいのだが、内宮さんは家業がはき物の卸し商で、西別院のうしろの野っ原に店の倉庫があったのである。

かねての打ちあわせがあってか、それともその方角に火の手があかって心配してか、わざわざ距離のあるところを行き、どうぞこうぞ西別院の前まで来た。寺はもえている。そこで、その横手へ行こうとした。しかし、そのあたりも火だ。
 
するとそのとき
「そんなところへ行ったらあかん、こっちへはいんなさい、こっちへ」
という人声をきく。川にかかった門のまえの橋の下から呼んでいる人がいる。
 
川といっても、そこは三、四尺の巾、ドブ川で、わずかな水があったが、ながれてはいない。それでも、はやくはやくと必死に呼んでくれている。
 
内宮さんはこわかったが、ちゅうちょする間もない。呼び声にひかれて、ふたりの娘さんがさきになって、わずかなすき間のようなところへはいっていってしまった。いまはともかくそこへ身をかくすのがよいかもしれなかった。僑の巾は三間以上はあったろう。内宮さんも娘さんにつづいて、もぐるようにし
てはいった。

その瞬間、直撃弾がおちた。
かあちゃん
内宮さんは、娘のそのひとことをきいたように思う。
まったくの偶然に、あとになってはいった内宮さんだけが奇跡的にたすかった。朝になって、ふたつにわれて、くずれた橋の下になりながらも、ふと意識がもどったのである。
 
その内宮さんは、この橋の下だけで三十八人死んでいたと話している。内宮さんのふたりの娘さんもその中にはいっている。
 
中田石男さんは、国民学校六年生。夏休みをまえに、ひとり郊外のおばの家に一泊。遊びにいったこの晩に空襲があった。
中田少年は。焼け跡にもどり、神明神社の前でピラミッドになった死体の山を見たが、父毋たちの姿をさがしてさらにひきかえし、西別院へ行った。一家にめぐりあえず、寺の前の川にそって、川にちらばった人びとの死体を見やりながらあるいていた中田少年の思いは、そのときどのようなものだったろう。
ふと、彼はたちどまった。川の中に焼けたトタンがふきとんできていて、そのしたに、見おばえのあるカバンと着物がちらっと見えたのだ。さては、と思い、トタンをはぐってみた。はたして、二才の弟をおぶった毋と四才の妹をおぶった父の姿があった、四人がかたまって死んでいた。傷はなかった。トタンがもろにあたっだのかもしれないが、やはり煙りによる窒息死であったろう。
父中田棯三十六才、毋ちよの三十四才、妹信子、弟勝利。

東郷千代子さんも、家業ははき物屋で、当時江戸下町西組(現在、宝永四丁目)と呼ばれたところに店をかまえている。
一家は九人家族。十四才から赤ちゃんまで、男女三人ずつの六人の子どもがいた。そしておばあちゃんがいた。
なかなか借りにくかった荷車がようやく手にはいって、あすはその荷車に家財をつけ、さしあたっておばあちゃんと子どもたちを疎開させようという、その夜の空襲であった。
その夜、おばあちゃんのフサさんは、かわいい孫の一郎(十二才)、二郎(六才)のふたりをつれて、西別院のほうへ逃げた。千代子さんは、残った四人の子とともに、そのあとにつづき、西別院のうらの田んぼめざして逃げた。ご主人は、町内会長をしていたので、あとに残った。
毋千代子さんについて逃げた十四才の登美子さんは、そのようすをこう話す。登美子さんは三才の弟の手をひき、となりに妹がいる。
「ほんとにそのときはね、空を見ると、もう、雨のようでしょう。焼夷弾がぱあ-つと落ちてきたのが、ぱっとひろがって落ちてくるんです。ほれがもう、ザーツ、ガーツ、ザーツと。もう、音にびっくりしちゃって。すごい音でした。……西別院の前まで行ったんです。そのうちに、学校でならった、『伏せる時にはこういうふうにするんですよ』つていわれてたのを思い出して、『ちょっと、伏せなあかんわ。こんなに大きな音して、もう、気持ちわるいわあ』ちゅうて、ちょうど西別院の前の、あの、前門(表門)つていうんですかね、門の、あそこで伏せたんです。あの、そしたら、そこにぱあ-っと降ってきたんですね、焼夷弾が。んで、妹が、となりで直撃をうけたわけなんです。」
たまたま「伏せ」をした妹の米子さんに、直撃弾がおちた。たちまち米子さんは火だるまになり、頭のほうから、防空頭布の上からもえだす。即死である。
このとき千代子さんも頭に油をあび、たちまちやけどをする。びっくりして、まだもえていなかった門前の家の中にかけこむ。その家の人もいて、そこで布団を借りる。娘さんたちの手をとり、布団をかぷり、ふたたび外にでる。そして、なんとかして寺のうしろへ行こうとする。あいつぐ焼夷弾。ひろがる火の中を夢中でつっきる。
ご主人は、ひとり一歩おくれて西別院へむかう。すでに火はひろがっていたが、道のりにくわしかったこともあり、行くところどころの家の中をかけぬけて、火の中を通らぬようにして逃げた、そして、西別院のうらで、やはり火の中をつっきった千代子さんらとうまく出会う結果となる。
しかし、いちはやく逃げたおばあちゃんと二人の息子さんは、たすからなかった。朝になって探しにでた東郷さんたちは、やはり寺の前の川でいっぱいの人が死んでいるのをしらべていく。そして、水ふくれになって。ひとりたおれているおばあちゃんの姿を見つける。つづいて、そこから二、三間はなれた川の中で、息子さんの一人を見つける。もうひとりの息子さんは、それからまたさがして、西別院の境内の防空壕で、死んでいるのを見つける。
 
おばあちゃんが西別院のほうへ行ったのは、日頃お詣りをかかさなかった人だけに、そこへ行けばたすかると思っていたのではないか、と東郷さんは推測する。だが。この三人が、まるでばらばらだったのはなぜだろう。
うえの息子さんは子どもながら体がおおきく、力があり、すもうがつよかったという。そこで、三人いっしょに家をでたが、自分ははやく逃げたいけれど、おばあちゃんがいる。
それでも、寺の前に来たときには、すこしはやくなり、境内にはいってしまっていた。一歩おくれたおばあちゃんと下の息子さんは、そのときなにかの都合で境内にはいれず、そのまま川の中へはいった。下の息子さんは六才で、おばあちゃんからはなれられず、いっしょになった。そしてすぐそばに直撃があったかもしれない。下の息子さんはふきとばされたのだろう。

中学生宮崎肇さんは、空襲がはじまってすぐ、爆弾がおちてくる中を、妹とふたり、西別院の前の通りへでる。通りはちょうど押すなおすなの人であった。
ふと見つけた、寺と寺のあいだの、ニメートルぐらいの幅の通路が、宵崎さんをたすけた、まだもえていない。その通路をぬけて、うらの田んぼにでたのである。そこでも焼夷弾がおちてくるので、もう必死になって畷道をかける。
ようよう安全と思えるところまできて、まもなく、一時はなれてしまった妹と会える。
父もくる。
だが、毋がこない。母はまだ赤ちゃんの妹をおぶっているはずである。
不安の中で夜が明ける。焼け跡へはいると西別院はすべて焼けおちている。くずれたところからパチパチと炎がたっている。
寺の前あたりまでくると、道にやけどをした人が二、三人寢ている。そのうちの一人が。
だれかの名まえを呼んでいる。ちかずいて顔を見たが、母ではない。
そうこうするうち、西別院の裏門へきた。裏門と呼んだ門は、表門とならんでいて、いわば通用門のことである。
くずれおちた門のなかに四本の鉄の棒がつっ立っているのが見えた。
「あれは……」
と宮崎さんの父は見すえて。
「乳母車じゃないか」
とさけんだ。乳母車の残骸の鉄材の骨組みだけがある。しかも、たしかに父が自分で修理した針金もついている。まちがいなく家の乳母車だ、と父は見たのだ。
「そうかもしれん、はいってみよう」
と、みんながまだすこし熱いのをがまんして、二、三歩中へはいった。まちがいなく、家の乳母車だった。そこに、黒こげの姿があった。のっている瓦をよけていくと、まぎれもなく母がでてきた。母はあおむけのまま、まったくもえきっていた。その背の下に、足だけがもえて、着物がそのまま残っている妹の体があった。上にのっていた人が母であることは、そのふたりをむすびつけていた帯のかけらがあったことでまちがいなかった。
直撃があったのだろうか。母のさだをさんは、乳母車の手をはなして、二才の勢津子ちゃんともどもあおむけにたおれた。そこへ、裏門の屋根がくずれてきた。……それにしても、なぜ乳母車をひいて逃げたのだろう。その中に何かをいれたのだろうか。さだをさんの心をどうわかってあげるべきだろうか。

 

 

終わりに

7月19日は福井空襲の日です。
日本全土にB-29爆撃機による焼夷弾の無差別絨毯(じゅうたん)爆撃が繰り返されました。
福井空襲においては本願寺福井別院も爆撃され地獄絵のような様相でした。
現在ウクライナにおける戦争は他人事ではないように思います。

ダンマパダ129  
ブッダの真理の言葉・感興のことば』中村元訳 岩波文庫
すべての者は、暴力におびえ、
すべての者は、死をおそれる。
己が身にひきくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)784頁
御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ