よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

矢倉炬燵(やぐらこたつ)の思い出

冬になると思い出すのが矢倉炬燵(やぐらこたつ)。
掘り炬燵ともいいます。

数十㎝四方の畳を取り外すと、床下には石の炉のような物があり、
その上に木組みの四角い枠の形をした矢倉炬燵を置き、
炬燵の上には綿入りの炬燵布団を掛けます。

石の炉に炭火を入れ、四角い木の枠の下に金網をつけた蓋を置きます。
矢倉炬燵に入って、蜜柑やかき餅を食べるのが楽しみでした。

家の床下には俵に入れた炭が備蓄してありました。

時には炬燵の中で甘酒を発酵させることもしました。
部屋の中に甘酒のあま~い香りが漂い、なんとも言えない幸せが。

だけど換気をしないと二酸化炭素中毒になることも。
矢倉炬燵が外れて火事になりかけたこともありました。

そういえば文殊山にも炭焼小屋があり炭を作る炭焼き職人もいました。
今のような杉山ではなく炭の原料になる木も豊富にあったからでしょう。

昭和40年頃までだったでしょうか、記憶違いがあるかもしれません。

doubou.hatenablog.com

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hateblo.jp

www.facebook.com

里見時成 討死の地を訪ねて

敦賀市樫曲(かしまがり)は南北朝時代正覚寺ゆかりの武将・里見伊賀守時成が瓜生保(うりゅうたもつ)らと壮絶な討死をした場所で、瓜生保の墓もあります。
伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。

南北朝の争いで、戦闘はかなりの激戦であり凄惨な様相だったようです。詳細については太平記に記されているので関心がある方はお読みください。

樫曲は旧北陸道が通っており道沿いには木ノ芽川が流れています。古来多くの人がこの地から木の芽峠に至る道を往来したのでしょう。

2024年6月思いたって樫曲を訪ねてみました。以前、この地区の寺院の法座に何度か伺ったことがあり、およその場所はおぼえていました。この地を訪ねて戦死した人たちを偲び読経をいたしました。

正覚寺は古は禅宗であり妙観寺(みょうかんじ)と称していました。妙観寺の開基了観の元の名は里見成純といい新田氏の一族里見時成の子だといわれています。南北朝時代、里見伊賀守時成は足利尊氏との戦いに敗れ、新田義貞らと共に越前に逃れてきたが、1337年金ケ崎城の戦いで瓜生保らとともに激戦の末戦死したということです。
敦賀市樫曲(かしまがり)には瓜生保が戦死した場所に記念碑が建てられています。

里見時成と正覚寺の関係については確証はありませんが、若干想定できることもあります。それは継承している名称です。妙観寺は天正元年に織田信長の兵火で焼失しました。その時に多くの資料が消滅したため、意図的に名称を継承したとも考えられます。

妙観寺の名称は妙観山正覚寺山号として継承されています。

「観」了観と妙観寺。

「成」里見時成、里見成純(剃髪後の名は了観)。

「純」里見成純、浄土土真宗に改宗して初代の住職・了純、2代住職・純誓。

歴代住職に多い「了」の名 了観、了純、了意、了雲、了正、了閑、了圓、了然、了空、了性、了念。 

樫曲には旧北陸道が通っていて木ノ芽峠に通じているようです。木ノ芽川も流れています。この旧北陸道を多くの人が通ったのだと地区の人から聞きました。

樫曲(かしまがり)の由来
地名の由来は南北朝期の金ケ崎合戦に、村人が樫の棒を急造し、その棒が折れるほど奮戦し、南朝軍を救援したことによるとの口碑がある。「太平記」巻17(16騎勢入金崎事)に「深山寺ノ辺ニテ樵ノ行合タルニ」とみえる。集落の西北の内池見の小字大平から東浦海岸の田結に通ずる山道がある。近江・京都へ塩を運ぶ道として利用されたという(東郷村誌)。

www.library-archives.pref.fukui.lg.jp

北陸道


山際で道が交差する場所に瓜生保戦死の地と標された石碑が建ち、その脇には敦賀市教育委員会の説明文が掲げられています。

 

敦賀市教育委員会の説明板

 

そこから敦賀市方面の山道に「瓜生保の墓」の道案内があるので、案内に順って山道を登りました。途中北陸新幹線を見ながらかなりの坂道を登ります。樫曲地区の共同墓地もありました。

案内の標識

 


坂道を登り切ったところの広場に「瓜生保の墓」があります。里見時成、瓜生保など多くの人が討死したこの場所で、暫しお念仏を称えて手を合わせ読経をしました。以前から一度来たかった場所です。

瓜生保の墓


帰り道、坂道を下っていくと北陸新幹線のトンネルが正面に見えました。南北朝時代とは随分、周りの風景もかわったものです。

北陸新幹線

 

北陸新幹線のトンネル


2024年8月16日付の福井新聞には敦賀・樫曲在住の方が瓜生保を後世に伝えようと冊子を発行されたことが掲載されていました。記事によると樫曲の地名の由来は、瓜生保を応援するために村民が樫の木を刀代わりに使い、木が折れ曲がるほど激しく戦ったことが記述されているそうです。


途中で見た花など


最期に樫曲地区は、浄土真宗のみ教えを熱心に聴聞するご門徒が多いところだということを記します。

 

御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏(あんのん)なれ、仏法ひろまれ
親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)784頁

 

www.facebook.com

www.facebook.com

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenablog.com

清流の妖精 梅花藻(バイカモ)

今年も福井県越前市治左川の梅花藻を見に行きました。曇り空で時折小雨交じりでしたが、清流の妖精・梅花藻を見るには適した天候なのかもしれません。

昨年よりも約1ヶ月早く来たためか、水中花・梅花藻は沢山咲いていて、時間をかけても見あきることがありません。キンポウゲ科の水生多年草で、梅に似ている白い花は直径2㎝位のとても可愛い花です。

時折雨粒が落ちてきて花の周辺に広がる水紋がとても美しく感じられました。雨粒が落ちた瞬間をとらえることも・・・。

水がとても清らかで偶然にも「逆さ梅花藻」を見ることができました。水面に写しだされた梅花藻も風情があります。

梅花藻の周辺を蛇行する水流の変化もなかなかおもしろく、梅雨時の鬱陶しい気分を払拭してくれました。

帰ろうとしたとき思いがけず、深紅のショウジョウトンボにあうことができました。



「逆さ梅花藻」水面に梅花藻が映っています!

 


水面に雨粒が落ちて水紋が広がる瞬間です

 

ショウジョウトンボ


2023年8月4日

福井県越前市上真柄町 治左川の梅花藻(ばいかも)

福井新聞 『越山若水』2023.8.8

www.facebook.com

www.facebook.com

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hatenablog.com

 

古方上湖沼の多様な生態系

中池見湿地

古方上湖沼の多様な生態系

ラムサール条約湿地「中池見湿地」に行って、鯖江市片上地区も昔はこのように多様な生き物が生息する、自然豊かな湖沼があったのかもしれないと思いました。この地区には古代~中世にかけてかなり大きな湖沼がありました。

文殊山とかたかみ』より
古方上湖沼は、古い時代ほど面積が広く、深かったことが推定できるが、自然堆積や人為的な埋め立てによって年々その面積が縮小し、浅くなってきたことがうかがえ、いわゆる湖から沼へと変化していったのである。

 

片上地区の原始、古代の人々にとって、湖沼は狩猟場であり、漁場であり、植物や貝類採取の場であり、生活の糧を得る大切なところで、必要空間であった。湖沼の畔に丸木舟や貝塚が遺存している可能性も高い。

 

縄文時代から平安時代にかけての遺跡から狩猟具や漁労具が発見されていることは、各時代の人々が湖沼からも生活の糧を得ていたことが理解できる。

 

藤原忠平の日記、『貞信公記』の延長5年(927)12月5日の条に見える方上荘の荘名も「潟の上(かたのかみ)」いわゆる「湖沼の上(かみ)」に設定された荘園であったから名付けられたと考えられる。

 

湖沼の一部が福井藩の鴨溜として、その痕跡をとどめていたことが明らかになった。福井藩の鷹場になったことは、地域の住民は「鷹条目」や「鷹場条目請書」にあるように、鷹場の諸鳥は大小によらず一切取ってはいけない、鷹場川筋並びに鴨溜の柳は切り取ってはいけない、禁止されている道より寄場は一切通ってはいけないなどといろいろ制約を受けた。

www.facebook.com

doubou.hatenadiary.jp

対立のものさし

  

笹百合


対立のものさし

人間の善と悪は相対的で
人間の善と悪の関係は絶えず変化するもの
人間に絶対的な善はない
人間に絶対的な正義はない
  
わたしを善悪や正邪のものさしで縛らないでほしい
あなたを善悪や正邪のものさしで縛りたくない
わたしたちに正義のレッテルを貼らないようにしよう
あなたたちに邪悪のレッテルを貼らないようにしよう
善と悪に分けられた空気を読まないようにしよう

正義を確信することは危険なこと
正義を独占することは誰にもできない
握りしめたものさしが凶器になることを恐れよう
ものさしを振りあげる前に
静かに自分の正義を疑おう
自分を正当化していないか疑おう 
自分を正当化しようとする愚かさを
深く深くみつめよう 

対立する二つの価値観に縛られるとき
人間は考えなくなる
 二つの選択がいのちの選別をする             
 人間の個性が二種類の色に塗りつぶされる
 人間の考えが損益という二つの記号になる          
人間は単純になる
複雑に見えるのは
集団や組織の損益が絡(から)まりあっているから
勇ましい言葉や排(はい)斥(せき)の言葉が飛び交い 
弱者は口を閉ざす
  
人々は繰り返されるワンフレーズの言葉に酔う
そして、だれも考えられなくなる

わたしは一人の人
あなたも一人の人
わたしは本当の人間として生きる 
あなたと本当の人間として向き合う
 

それだけでいい
それだけであたたかい
 それが人間のつくった対立のものさしから解放されること
「あなた」と「わたし」が「わたしたち」になること

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp



www.facebook.com

母子草(ははこぐさ)

 

母子草(ははこぐさ)
庭にたくさん咲いていますが道ばたに普通に咲く花です。

可愛そうな名前の花も多くありますが、この花の和名はとても素敵ですね。
春の七草にいう御形(ごぎょう)で、かつては草餅(母子餅)用いられましたが、
蓬(よもぎ)に取って代わられるようになってからは、草餅には用いられないようになりました。

全体に白い軟毛があるのですが、なんだか赤ちゃんの産毛みたいだと思います。
和名を聞き、姿を見ているだけで母と子の微笑ましい姿が思い浮かんできます。

春の季語として古くから俳句や短歌などに、たびたび登場するようですが、この花を見て感動した人は、現代人とは違う感性を持っていたような気がします。
「映え」を重要視するのではなく、もっと別の豊かな物語を想像していたのかも・・。

和泉式部の歌に
「花のさと心も知らず春の野に いろいろつめるははこもちひ(母子餅)ぞ」という歌があるそうですが、同時代に生きた紫式部も母子餅を食べたのかもしれません。

一年弱滞在した、越前の国府にも母子草はたくさん咲いていたでしょう。

www.facebook.com

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp

里見法爾と明治期の浄土真宗

海外宣教会関係者略系図 『仏教国際ネットワークの源流』より

 

1.里見法爾と明治期の浄土真宗
先月龍谷大学のN教授により最近発表の研究成果を収録した冊子を数冊頂戴しました。N教授には今までも多くの書籍をいただいております。
今回いただいた冊子『海を越えた真宗』では正覚寺14代住職・里見法爾のことが紹介されています。

里見法爾(さとみほうに)は1898(明治31)年に初代のハワイ布教監督としてハワイ開教に尽力しました。英語を学んだのは福井藩僧学校時代だったと思いますが、福井藩僧学校がどのような学校であったのかは不明です。

松平春嶽橋本左内の影響を受けた福井藩校明道館(明新館)と関係している可能性も十分考えられます。
明治初期、福井県の僧侶のなかでは、化学や英語を学び海外との交流を積極的に深めようとする機運が高まっていましたが、その中に里見了念、里見法爾、今立吐酔、小泉了諦、善連法彦などもいました。
また、その影響があったためか、進んで海外に移住する門徒もいたようです。片上地区にも海外に移住する人がいました。

2.里見法爾略歴
正覚寺13代住職里見了念の弟。ハワイ布教初代監督(明治31年~33年)。海外布教に尽くした。鹿児島、千島樺太、台湾、ハワイ等で布教活動。
福岡教区教務所長(明治33年11月6日~明治35年3月15日)
※明治34年9月両筑協会(のちの両筑会)を結成。
福岡仏教中学の本山立許可をめぐって本山と対立。
本願寺福岡会館再建記念誌』 2000年11月発行参照

3.小泉了諦と善連法彦 
ヨーロッパで初めて浄土真宗報恩講を厳修したのは福井県出身の人の僧侶でした・
1891年2月21日にパリのギメ博物館(現国立ギメ東洋美術館)において、浄土真宗報恩講を厳修しています。

小泉了諦と善連法彦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/1/65_524/_pdf

 

小泉了諦

www.city.sabae.fukui.jp

 

善連法彦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/1/65_524/_pdf

 

www.facebook.com

doubou.hatenablog.com

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hateblo.jp

地下で蓄えたカタクリの生命力

カタクリの生命力

カタクリの芽 2024.03.07 文殊

雪が融けるのを待ち、先の尖った芽が固い土や落ち葉の壁を貫通して地表に顔を出します。

カタクリの芽 2024.03.06 文殊山麓


地表に出た芽は徐々に1枚の葉を展開して次につぼみがついた花茎が伸びてきます

カタクリのつぼみ 2024.03.03 文殊山麓

 

初めは上を向いていたつぼみは、花茎がのびて大きくなるのにしたがって下を向くようになります。

花茎が10cm~15cmほどにのびるといよいよ開花です。

写真のつぼみはそろそろ開花でしょう。開花した後に葉が2枚となります。

 

1年の10ヶ月程は地下で過ごし力をたくわえています。先端が尖ったつぼみは精悍な姿で生命力にあふれています。

開花前のカタクリを見ることができるのは今です。

www.facebook.com

www.facebook.com

  1. doubou.hatenablog.com

    doubou.hateblo.jp

    doubou.hatenadiary.jp

    地下で蓄えたカタクリの生命力

麒麟(きりん)でなんだろう?

麒麟(きりん)でなんだろう?

1.御堂のなかで

西本願寺 手前が御影堂 奥が阿弥陀堂 (国宝)

京都の西本願寺には何度もお参りしました。法要があるとき以外にも阿弥陀堂や御影堂にお参りします。時には堂内に一人だけのこともあります。

お念仏を称え合掌礼拝した後、かなり長い時間一人で座って、ぼーっとしています。天井が高く、広い空間のなかにいると時間が止まっているように感じます。スマートフォンも見ません。時にはSNSも遮断します。ぼーっとしているのはとても好きです。

そしてその後は、太い柱のまわりを回ったり、柱の年輪を観察したり、柱にさわってみたり。太い柱に手のひらを広げてそっとあてると、木の温もりが伝わってきます。木と会話をしているような気分になります。樹齢数百年の大木が山で茂っていたときのことを想像したり・・。警備の人に怪しまれないように。

この木はどれだけ多くのお念仏の声を聞いてきたのだろう?
この木はどれだけの重さを支えているんだろう?

2.御堂のまわりでは
御堂を出たら外縁の板もながめます。どれだけ多くの参拝者がこの板の上を歩いたのだろう。参拝者を支え続けていた板でした。だれもお礼は言わないけれど・・・。そんなことも想像します。木のすき間を埋める埋め木(うめき)には職人さんの遊び心が溢れています。魚や軍配の埋め木もあります。

それから木組みを見たり彫刻や絵画も観察します。彫刻や絵画には多くの花や動物も彫られたり画かれていたりします。花の種類や名前も気になります。

宮大工さんの話しを聞いたり、宮大工さんの本を読んだりすることが大好きです。正覚寺に来ていただいている大工さんや、瓦職人の方にもいろんなことを質問します。宮大工さんだけではなく、いろんな職人さんの話しを聞くのが大好きなものですから。

3.麒麟(きりん)てなんだろう?
①唐門の彫刻
唐門には唐獅子や麒麟の彫刻があります。

唐門(国宝)

唐獅子

唐獅子

 

麒麟(きりん)

麒麟(きりん)

麒麟(きりん)

麒麟といえばビールでおなじみですが、伝説上の生き物だとされています。いったい麒麟とはなんだろう?仏教とどんな関係があるのだろう。相棒の杉下右京ではないけれど「細かいことが気になります」

③一角獣(いっかくじゅう)

角(つの)が一本あるようですが、これがヒントでしょう。古今東西を問わず一角獣(いっかくじゅう)は不思議な生き物とされています。西洋でいえばユニコーンです。

麒麟(きりん)と犀(さい)

ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫には次のように書かれています。
「犀(さい)の角(つの)のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶(きよほうへん)にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えらる生活をしている独覚(どっかく)」に相当する。

そのあと中村元さんは、犀のことをなぜ漢訳者は「麒麟」と訳したのかということについて、中国の人たちには犀はあまり知られておらず、キリンのほうになじみがあったからではなかろうかと推測しています。

中国の人はインドの犀(さい)という動物を見た人がなく、該当する言葉もなかったので麒麟(きりん)という言葉に当てはめたのかも知れません。

以前に研修会で仏教学者・佐々木閑さんの講義を聞いたのですが、同じようなことを言われたように記憶しています。

ブッダのことば』には「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」と言う言葉がくり返し書かれています。「人と優劣を比べることなく、毀誉褒貶(きよほうへん)に左右されずに自分の道を歩みなさい」そんなブッダからのメーセージのような気がします。

ビールを飲むとき麒麟の逸話を考えてみるのもよいのではないでしょうか。酔いが醒めてしまうかもしれませんが・・・。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪えて恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫 18頁

4.飛雲閣と鐘楼
飛雲閣

飛雲閣(国宝)


飛雲閣は、二層三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られています。三十六歌仙の絵が描かれています。ちなみに京都の三閣は金閣銀閣飛雲閣です。

②鐘楼

鐘楼

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenablog.com

www.facebook.com


飛雲閣の近くには鐘楼があります。

『サンダカンまで 私の生きた道』 山崎朋子著を読んで

1.山崎朋子と片上小学校


福井県出身のノンフィクション作家で、女性史研究家としても知られる山崎朋子さんは『サンダカン八番娼館』では、大宅壮一ノンフィクション賞受賞した方です。

彼女は21歳のときの、1953(昭和28)年4月から1954(昭和29)年3月まで、福井県鯖江市・片上小学校(かたかみしょうがっこう)の教諭をして3年生の担任をしていました。

この本には彼女の波乱に満ちた生涯が記されていますが、そのなかで鯖江市・片上小学校の教諭をしていたときのことについては、ほのぼのとしたエピソードが綴られています。当時の教え子だった方もおられるはずです。

また、その当時のことが詳細に記されていて、教諭として生徒たちにいかに慕われていたのかがよく分かりました。
また、当時の片上地区で暮らす子ども達の素朴な様子も、詳しく書かれています。

学校から家に帰ったあと、焚木(たきぎ)集め・風呂の水汲(みずく)み・子守・畑の草取りなどを為ているのである。そして自身のおやつはというと、春はすかんぽ、いたどり・木苺・茅萱(ちがや)の若穂など、秋は山柿・山梨・栗・あけびなどを採って済ませているのだった。

『サンダカンまで 私の生きた道』
 山崎朋子著 朝日文庫

 

2.70年前の暮らし

私は昭和29年2月生まれなので、私が生まれたときにはまだ片上小学校に在籍していたことになります。
本に書かれている当時の子ども達の暮らしや遊びは、私自身の子どものころとそんなに変わっていません。

当時、我が家の風呂は五右衛門風呂だったので風呂の水汲みもしたし、風呂や囲炉裏の火を燃やすための焚木集めもしました。片上地区では「たきもんひろい」といっていましたが。囲炉裏の火の番は子どもの仕事。渋柿は母親ととりました。私が先端を二股にした竹で、柿の小枝を挟みながら回し柿を絡めて、母親が手に持つ籠に入れます。
編み物をほどいた毛糸を母親と協同作業で大きな玉にしたり。

栗は木に登り小栗でも食べたように記憶しています(ほとんど食べれそうなところがなくても)。栗のイガを片足で踏みつけ、棒を使ってイガをとります。そして薩摩守で皮をむいて食べる。とにかく何でも食べれそうなものは食べてみました。銀杏は石で叩きたき火の中に入れて焼く。石で叩かないとボン!と破裂します。

スキーは手作りの竹スキー。蝋燭の残蝋をスコップの上に乗せ焚火で温めて溶かした後、スキーの底に塗ればよく滑る。冬はたこあげや独楽廻し。

 

3.底辺人間史


さて本題にもどります。

山崎朋子のその後の人生についても共感できます。
「サンダカン八番娼館」文春文庫も読みはじめていますが。著者が底辺女性史をライフワークとしていたことに共感しています。

私は歴史が好きですが、勝者や勇者の歴史ではなく、底辺に生きる庶民や挫折した人の歴史が好きです。歴史に名を残さない、そんな人びとにも歴史があります。声をあげられない人にも心の声があります。底辺人間史といってもよいと思います。

よく考えてみると、この地球自体が生きとし生けるものすべての「墓」だとも思えてきます。

生き倒れになった人、餓死した人、戦死した人、そして誰にも葬られなかった人も、無数にいたことでしょう。化石燃料だって古代に生息していた動植物の死骸が地中に埋もれて、長い年月をかけて地熱や地圧の影響を受けて変化したものだといわれています。恐竜だって同じです。現代の私たちはその恩恵を受けているのです。

そんな地球の上にも花は咲きます。

4.社会的弱者

星の瞳(別名オオイヌノフグリ


大地の底辺に咲く野花を撮るのも、地を這(は)うようにして咲く小さな野花と、世のなかの底辺に生きる社会的弱者が重なっているように思えるからです。だから決して尊厳を踏みにじってはいけないと思うのです。社会的弱者にも心には美しい花が咲き、清らかな香りもします。

長い文章になりました。本の続きを読むことにします。

www.facebook.com

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp

花と草と虫に学ぶ

花と草と虫に学ぶ 

1.ある寺院の寺報より
昨年秋、ある寺院の報恩講法座にご縁をいただきました。法話のあと御文章を拝読したのですが、御文章箱のなかにその寺院の寺報が入っているのが目にとまりました。書かれていたのは
『雑草という名の草はない 害虫という名の虫はいない』
という言葉。

法座の後、その寺報をいただいて帰り、改めて読み直したところ肯くことが多くありました。人間はとても傲慢(ごうまん)な生きものなのかもしれない。もっと謙虚に自然に学ぶべきなのではないでしょうか。

紙面に書かれていた文面を紹介します。

『雑草という名の草はない』とは植物学者の牧野富太郎博士の言葉とされています。
また、生物学者でもあった昭和天皇は、あるとき『人間の一方的な考え方で、雑草と決め付けてはいけない。注意するように』言われました。

確かにどんな草にもしっかりと名前があります。また、「害虫」という名の生き物もいません。人間にとって役に立つか立たない事で区別し、少しでも害をもたらすものを、一方的に「害虫」と名付けているのです。

『人間は植物なくては生活のできない。つまり、人間は植物に向こうてオジギをする立場である』とも、牧野博士はのべています。 

阿含経(あごんきょう)』に『此ある故にかれありこれ起こる故にかれ起こる。これ故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅する。』とあります。

すべての生き物は、『縁起(えんぎ)』の教えにあるように無数の繋(つな)がりの中で生かされている存在です。お彼岸をご縁に、懺悔の心でお礼致しましょう。

 


2.今年いただいた年賀状より
今年ある方よりいただいた年賀状に書かれていた言葉

四葉のクローバーを見つけるために
三つ葉や名もなき花を
踏みにじってはいけない
幸せはそんな風に探すものじゃない
『心が晴れる40のコトバ』著者吉村隆真より

なるほどなぁ!

花と蝶

3.人間に注意!
あちこちに「クマに注意!」の看板が掲示されています。

でも本当は「人間に注意! とても傲慢で危険です!」と書かれた看板が必要なのかもしれません。

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

www.facebook.com



正覚寺の建造物

                                             鯖江市歴史的建造物調査資料
                                                      

1.概観(がいかん)

概観


浄土真宗本願寺派。妙観山と号し、集落の北に迫る山裾(やますそ)の高台にたつ.山門はないが、本堂、鐘楼、経蔵、庫裏を備え、本堂と庫裏の間に望楼(ぼうろう)を上げるなど整った寺観を呈している。

 

2.本堂(ほんどう)

本堂外観

本堂内

内陣


本堂は桁行(けたゆき)9間、梁間(はりま)9間、入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物で、正面に幅3間分の向拝(こうはい)がつく。

内部は前方梁間(はりま)3間分を溜まり、その後方に幅1間半の外陣(げじん)をとる。後半部は中央が内陣(ないじん)で、その背面は中央に後戸(うしろど)をたて、両脇を脇壇(わきだん)とする。

内陣の左右はともに12畳大の余間(よま)である。

内陣の正面は両折れ戸、余間・外陣境は襖立てで、内法には金箔の彫刻欄間がみられる。 

平面構成や華麗(かれい)な内部空間、意匠はまさに真宗の後門形式本堂の典型である。外周りは、正面が両折れ桟唐戸(さんからど)で、内法ガラス入り菱格子(ひしこうし)を入れている。

柱上には台輪(だいわ)を回し、組物(くみもの)は拳鼻(こぶしばな)付き出組(でぐみ)、軒支輪(のきしりん)つき、頭貫(かしらぬき)や内法虹梁(うちのりこうりょう)の絵様は簡素である。

内法虹梁の木鼻(きばな)は獅子頭(ししがしら)で隅柱の中ほどにつく。
向拝の水引虹梁(みずひきこうりょう)の木鼻はS字型の特徴的な龍の丸彫り影刻である。

 

3.経蔵(きょうぞう)

経蔵

経蔵の彫刻

本堂右手前方の高台にたつ経蔵は「法宝蔵」の篇額(へんがく)を掲げている。

宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、外壁や軒廻りを白漆喰(しろしっくい)で塗り込め、腰は下見板を張る。前方に向唐破風屋根(むかいからはふやね)で銅板葺の向拝(こうはい)を張り出す。

この向拝部は木部(もくぶ)を露見するが、獅子(しし)の木鼻(きばな)や中備(なかぞなえ)の龍、内法の獅子など彫刻が豊富にみられ、彫りの質も高い。建築年代は本堂の翌年、明治17年(1884)である。

 

4.鐘楼(しょうろう)

鐘楼


本堂の前方にたつ鐘楼(しょうろう)は、切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、切り込みハギの石垣基壇(いしがききだん)にたつ。

頭貫(かしらぬき)と台輪(だいわ)に地紋彫(じもんぼり)がみられ、拳鼻付(こぶしばなつ)きの平三斗(ひらみつど)がつく。

妻は虹梁(こうりょう)・大瓶束(たいへいづか)で、柱の転びが緩(ゆる)く、簡素な形式の鐘楼(しょうろう)である。この鐘楼は明治の火災後の再建に際し、他所から移築されたと伝わっている,

様式的にみて江戸末期の建立とみられる。当寺では天保ころの建築と伝わっているが、この言い伝えはほぼ妥当であろう。

 

正覚寺140年の歴史

1.寺基移転・本堂再建・鐘楼移築140年

正覚寺本堂

▲2023(令和5)年は正覚寺が現在の場所に寺基を移転してから140年の年でした。以前は現在地より下の場所に堂宇があったのですが、1869(明治2)年の四方谷大火で火災に遭い、さらに1873(明治6)年には仮御堂が火災に遭いました。 

▲その後1883(明治16)年に現在地に寺基を移し本堂・庫裏・書院を再建しました。13代住職里見了念のころです。鐘楼は火災を免れて現在地に移築したものだろうと考えられています。

▲重機も電動工具もなかった時代に、どのようにして基礎を築き、木材や石材を運んだのでしょうか。また、どのようにして木材や石材を加工し、釘を使わずに木組みをしたのでしょうか。宮大工や石工の優れた技術はもちろんですが、その多くが門信徒の皆さまが人足として奉仕したものだったのでしょう。正覚寺を支えているのは門信徒の皆さまです。

 

2.御経堂建立140年

御経堂と鐘楼

▲また、今年は御経堂が建立されて140年になります。1884(明治17)年に某氏の寄附により建立されました。建物は見事な彫刻で飾られています。

 

3.織田信長の兵火で全山焼失して450年

四方谷古地図

▲さらに昨年は1573(天正元)年に織田信長の兵火で、正覚寺の前身である妙観寺が全山消滅して450年の年でした。『越前・朝倉氏関係年表』には、天正元年8月18日「信長、府中龍門寺に着陣する。信長の先兵、一乗の谷中、屋形を一として、館々、仏閣僧房、一宇も残さず放火する。3日間焼くという」と記載されていますが、同時期に妙観寺も放火されたのかも知れません。

▲妙観寺の寺跡は今でも字名「妙観寺・みょうかじ」として町内に残っており、古地図を見ると、その東には「門前出」「寺ノ前」などの字名もみられます。この地には200年以上妙観寺が存続していました。数え切れないほどの多くの人が妙観寺に集って仏法を聴聞していたのでしょう。

www.facebook.com

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp