よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

西山真一さんと正覚寺

東尋坊 1978年


西山真一生誕120年記念
西山真一・松生親子展
2026.04.25~05.10
まなべの館

寺にお参りされたご遺族と話しをしたあと、今回の親子展を見て西山真一さんのことを偲んでいます。故郷のことをとても大切にされた方でした。

昭和61年、西山真一さんから、盆参りの際に『西山真一画集』を頂戴しました。その時署名をしていただいたのですが、書もまた達筆です。
画集には「西山真一その人と芸術」と題して瀧悌三氏(日本経済新聞編集委員)の言葉が書かれており、そのなかには西山さんと四方谷町や正覚寺の関係が詳細に記されています。

『西山真一画集』

本人の署名

『西山真一画集』より

生い立ち
越前福井平野は、南部山地から北の日本海へと長く帯状に延び、中ほどやや北寄りに、かつて機織産業で知られ、今日眼鏡の縁の生産量の多い事で知られる鯖江市がる。だが同市も郊外に出るなら一望の田園で、穀倉地帯が広がる。

西山真一の生地は、その郊外である。元の呼称では福井県今立郡片上村四方谷、戸数七十足らず、人口百八十人ほどの部落だ。村には福井平野を貫く九頭竜川の上流日野川の、そのまた支流鞍谷川が流れている。

 

立志と上京
文検(※1)に合格すると、真ぐに県下敦賀の女学校から図画教員に採用したいとの招請があった。しかし、東京へ出たい真一なのでこれは断わる。にしてもこうして女学校から就職の口がかかる有様で、そんな文検に通ったのだから、父親も喜び、折れるだろうと真一は期待した。

また実際に父松太郎は息子の努力と成功に喜ばぬでもなかった。だが、それでも俄かに息子を手許から放す気になれぬ松太郎で、決心つきかね、村の寺、正覚寺の住職に相談した。
 
福井、石川の一帯は、昔から浄土真宗の信仰が厚く、この宗派の寺も多いし、何か集まり事があると村民は寺に集まり、寺は今日の村の公民館の役を果たしてもいた。そういう土地柄だから、日頃寺と村民の間は親密で、松太郎が息子の身の振り方につき、寺の住職(※2)に相談したのも、ごく自然な成り行きだった。

では松太郎に相談された住職は何と答えたか。「あんたとこの真さんなら、東京に出しても間違いは起こすまい」なのである。これで松太郎も真一の志望を容れる決心が付いた。

 

(※1)図画中等教員資格認定の文部省検定試験
(※2)浄土真宗本願寺派第15代住職 里見佳月

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西山真一・松生親子展

西山真一生誕120年記念 
西山真一・松生親子展
2026.04.25~05.10
まなべの館
四方谷町出身で正覚寺ゆかりの親子
すばらしい作品を見ながら
お二人のことを思い浮かべました

 

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正覚寺13代住職 里見了念の生涯

正覚寺13代住職里見了念は、弟で14代住職里見法爾とともに明治期の本願寺教団改革の中心的役割を果たしました。本願寺明如上人にも直言するような強い意思と行動の人だったようです。

正覚寺第13代住職 里見了念 明治45年撮影 裏面に佛子了念の記載あり

正覚寺13代住職 里見了念略歴 平成29年「正覚寺だより」より



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開かれた世界へ

ヤマハギ(山萩)

開かれた世界へ

SNSはとても便利で自分の世界が広がるように感じますが、本当に世界が広がっているのか疑問に思うこともよくあります。

ともすれば考え方が偏り、狭い世界に閉じこもる可能性もあるのではないでしょうか。気づかないうちに大海を知らない、井戸の中のカエルになっているのかもしれません。それは周りから分断され閉ざされた世界です。

そんなこともあり、「エコー・チェンバー現象」「フィルターバブル」の問題点を考えてみました。言葉の詳しい説明は文章末のリンクを見てください。

「エコーチェンバー」とは、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたものです。

「フィルターバブル」とは、アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指します。

小さな部屋に閉じこもり、自分中心の世界の中に孤立するのはとても危険です。閉ざされた部屋から広い世界に出て、自身とは異なる価値観にも耳を傾け、さまざまな個性を認め合うことが、とても大切なように思います。

自分中心の視点を離れて、あらゆる視点でものごとを考えたいものです。

また私自身、時々SNSに依存しているのではないかと思うこともあります。
そんなときにはSNS断捨離(デジタルデトックスもしたいと思います。
SNS断捨離(デジタルデトックス)とはSNSとの距離を置き、心の負担を減らし、集中力や睡眠の質を向上させるための行為です。

知的な情報より五感で感じる情報の方がはるかに豊かなように思います。

晴耕雨読

たまにはスマートフォンの電源を切り、晴れた日には外に出て自然に親しみ、雨の日には仏教書を繙きしみじみと味わう、そんな過ごし方もよいのではないでしょうか。心の豊かさを取り戻すために。一人の仏教徒としてそんなことを考えています。

来門自開(風来たりて、門自ずから開く) 足利浄円 


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正覚寺の歴史

妙観山 正覺寺


正覚寺700年の歴史は片上地区四方谷の豊かな自然と、この土地で平凡な暮らしを営んできた多くの人たちに支えられてきた歴史です。数え切れない多くの人々によってお念仏の声が伝えられてきた歴史でもあります。
 
正覚寺の開基は了観という人です。了観の元の名は里見成純で鎌倉末期の武将・里見時成の子といわれています。里見時成は1333年、新田義貞の鎌倉攻めに従い鎌倉幕府を滅ぼしました。

その後も義貞のもとで足利尊氏と戦いましたが、戦いに敗れ義貞らと共に越前に逃れてきました。時成は1337年1月11日越前金ケ崎城の救援にむかった際、足利方の今川頼貞軍に敦賀で討たれたということです。太平記の『越前府軍金崎後攻事』に記されています。

非常に激しい戦いだったようです。戦死した時成の子成純は、四方谷の人に養われるところとなり、後に剃髪して了観と名告り四方谷の西南山麓禅宗の堂宇を建立しました。妙観寺と称し寺跡は今も残っています。

はっきりした史実は分かりませんが、時成の戦死は28歳頃と考えられ、幼子のいたことは想像できます。

成純が出家した理由は、仏道を歩む志があったためなのか、あるいは足利幕府の追求から逃れるためだったのか定かではありません。確たる史実が残っているわけではないので伝承の域をでません。
ただ想像をたくましくすれば父親の無慚な最後を見て、怨みを捨てて仏道を求めたのではないでしょうか。

武門の家を捨てて一人の仏弟子として仏道を歩もうとしたように思えてなりません。お釈迦様の「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」という言葉を思い起こします。

いずれにしても文殊山麓の四方谷には豊かな自然があり、親を失い深く傷ついた幼い子どもを、あたたかく受け入れた人々がいたのでしょう。可憐なカタクリの花をつつむ春の光のような風光です。

正覚寺は当初は禅宗でしたが室町時代(1500年代)浄土真宗に改宗しました。天正元(1573)年改宗して初代住職了純の時、織田信長の兵火に焼かれ妙観寺は焼失しました。またも戦乱に巻きこまれたのです。

その後2代住職純誓の時、妙観山正覚寺と称し現在のご本尊(阿弥陀如来)を安置するようになりました。この時に四方谷の正西に移住しました。明治初期までこの地にありましたが火災に遭い、明治16年に移転し建立したのが現在の本堂です。

掌で包むように、低い山々で包まれ最も奥まった場所に位置する正覚寺の風光は、あたかもすべてのいのちを摂めとり見捨てない、阿弥陀如来の心のようです。争いのない平和な世のなかをめざしたいものです。


2.023.09.27追記

週刊少年ジャンプ」で連載中の歴史マンガ
『逃げ上手の若君』が話題になっているようで
今日放送のNHKの番組「歴史探偵」で特集されていました

正覚寺開基といわれている里見成純の父・里見時成は
同時代(南北朝時代)の武将として新田義貞とともに
鎌倉幕府を滅ぼした青年武将だったようです
最終的には新田義貞とともに越前に逃れてきて
金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをします
その顛末は太平記に記されています
確かな資料が残っているわけではありませんが
伝承として伝えられています

今まで南北朝時代はあまり人気がありませんでしたが
少し変わってきたようです
応仁の乱も最近脚光をあびるようになりました
歴史好きの虫が動いてきました

勝者や強者の歴史ではなく弱者の歴史を繙きたいと思います

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正覚寺と太平記

里見時成

福井県坂井市丸岡町にある称念寺では、
今年 新田義貞の686回忌の法要を勤めるようですが、
新田義貞とともに越前に逃れて、金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをした、
正覚寺ゆかりの武将、里見伊賀守時成も686回忌になります。

伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。

幼子が討手を逃れ片上の地にかくまわれ出家し、禅宗の草庵をつくったのが後の正覚寺です。

父親や親族たちの壮絶な討ち死にを目前にして成純は、
怨憎を超えてさとりの智慧をうる仏道を求めたのだろうと思います。

争いのない、怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝える、それが正覚寺が創設された所以でしょう。

今の世界にも争いが絶えません。怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝えていきたいと思います。

 

2023.09.27追記
里見成純と勢至丸

私は里見成純と幼少の頃の法然聖人の体験が重なるように思います。

法然聖人は幼少の時の名は勢至丸といいました。
平安時代末の保延7年(1141)、勢至丸9歳の時、稲岡庄の預所(荘園の管理者)をしていた父の漆間時国は、明石定明の夜襲にあい亡くなってしましました。

父の時国は死に臨んで次のような遺言をしたといわれています。

私はこの傷によって死んでいかねばならない。しかし、決して敵を怨まないでほしい。
もし、おまえが敵を討つならば、親から子と憎しみの連鎖は絶えることはないだろう。
私が死にたくはないのと同じように、いのちある者は誰でも死にたくはないだろう。
私は傷つけられると痛いと思う。人もまたそう思うだろう。
私はこのいのちを大切だと思う。人もまたそう思うだろう。
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息むのだということを心に刻んでほしい。
そして怨みの心をすてて、ともに救われる仏道を歩んでもらいたい。
それが私の願いだ。

 

ダンマパダ5
実にこの世においては、
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、
ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。

里見時成については

太平記 越前府軍並金崎後攻事』に記されています
その他には日本通信百科事典など

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https://wiki3.jp/japan_dictionary/page/2099

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里見時成 討死の地を訪ねて

敦賀市樫曲(かしまがり)は南北朝時代正覚寺ゆかりの武将・里見伊賀守時成が瓜生保(うりゅうたもつ)らと壮絶な討死をした場所で、瓜生保の墓もあります。
伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。

南北朝の争いで、戦闘はかなりの激戦であり凄惨な様相だったようです。詳細については太平記に記されているので関心がある方はお読みください。

樫曲は旧北陸道が通っており道沿いには木ノ芽川が流れています。古来多くの人がこの地から木の芽峠に至る道を往来したのでしょう。

2024年6月思いたって樫曲を訪ねてみました。以前、この地区の寺院の法座に何度か伺ったことがあり、およその場所はおぼえていました。この地を訪ねて戦死した人たちを偲び読経をいたしました。

正覚寺は古は禅宗であり妙観寺(みょうかんじ)と称していました。妙観寺の開基了観の元の名は里見成純といい新田氏の一族里見時成の子だといわれています。南北朝時代、里見伊賀守時成は足利尊氏との戦いに敗れ、新田義貞らと共に越前に逃れてきたが、1337年金ケ崎城の戦いで瓜生保らとともに激戦の末戦死したということです。
敦賀市樫曲(かしまがり)には瓜生保が戦死した場所に記念碑が建てられています。

里見時成と正覚寺の関係については確証はありませんが、若干想定できることもあります。それは継承している名称です。妙観寺は天正元年に織田信長の兵火で焼失しました。その時に多くの資料が消滅したため、意図的に名称を継承したとも考えられます。

妙観寺の名称は妙観山正覚寺山号として継承されています。

「観」了観と妙観寺。

「成」里見時成、里見成純(剃髪後の名は了観)。

「純」里見成純、浄土土真宗に改宗して初代の住職・了純、2代住職・純誓。

歴代住職に多い「了」の名 了観、了純、了意、了雲、了正、了閑、了圓、了然、了空、了性、了念。 

樫曲には旧北陸道が通っていて木ノ芽峠に通じているようです。木ノ芽川も流れています。この旧北陸道を多くの人が通ったのだと地区の人から聞きました。

樫曲(かしまがり)の由来
地名の由来は南北朝期の金ケ崎合戦に、村人が樫の棒を急造し、その棒が折れるほど奮戦し、南朝軍を救援したことによるとの口碑がある。「太平記」巻17(16騎勢入金崎事)に「深山寺ノ辺ニテ樵ノ行合タルニ」とみえる。集落の西北の内池見の小字大平から東浦海岸の田結に通ずる山道がある。近江・京都へ塩を運ぶ道として利用されたという(東郷村誌)。

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北陸道


山際で道が交差する場所に瓜生保戦死の地と標された石碑が建ち、その脇には敦賀市教育委員会の説明文が掲げられています。

 

敦賀市教育委員会の説明板

 

そこから敦賀市方面の山道に「瓜生保の墓」の道案内があるので、案内に順って山道を登りました。途中北陸新幹線を見ながらかなりの坂道を登ります。樫曲地区の共同墓地もありました。

案内の標識

 


坂道を登り切ったところの広場に「瓜生保の墓」があります。里見時成、瓜生保など多くの人が討死したこの場所で、暫しお念仏を称えて手を合わせ読経をしました。以前から一度来たかった場所です。

瓜生保の墓


帰り道、坂道を下っていくと北陸新幹線のトンネルが正面に見えました。南北朝時代とは随分、周りの風景もかわったものです。

北陸新幹線

 

北陸新幹線のトンネル


2024年8月16日付の福井新聞には敦賀・樫曲在住の方が瓜生保を後世に伝えようと冊子を発行されたことが掲載されていました。記事によると樫曲の地名の由来は、瓜生保を応援するために村民が樫の木を刀代わりに使い、木が折れ曲がるほど激しく戦ったことが記述されているそうです。


途中で見た花など


最期に樫曲地区は、浄土真宗のみ教えを熱心に聴聞するご門徒が多いところだということを記します。

 

御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏(あんのん)なれ、仏法ひろまれ
親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)784頁

 

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正覚寺140年の歴史

1.寺基移転・本堂再建・鐘楼移築140年

正覚寺本堂

▲2023(令和5)年は正覚寺が現在の場所に寺基を移転してから140年の年でした。以前は現在地より下の場所に堂宇があったのですが、1869(明治2)年の四方谷大火で火災に遭い、さらに1873(明治6)年には仮御堂が火災に遭いました。 

▲その後1883(明治16)年に現在地に寺基を移し本堂・庫裏・書院を再建しました。13代住職里見了念のころです。鐘楼は火災を免れて現在地に移築したものだろうと考えられています。

▲重機も電動工具もなかった時代に、どのようにして基礎を築き、木材や石材を運んだのでしょうか。また、どのようにして木材や石材を加工し、釘を使わずに木組みをしたのでしょうか。宮大工や石工の優れた技術はもちろんですが、その多くが門信徒の皆さまが人足として奉仕したものだったのでしょう。正覚寺を支えているのは門信徒の皆さまです。

 

2.御経堂建立140年

御経堂と鐘楼

▲また、今年は御経堂が建立されて140年になります。1884(明治17)年に某氏の寄附により建立されました。建物は見事な彫刻で飾られています。

 

3.織田信長の兵火で全山焼失して450年

四方谷古地図

▲さらに昨年は1573(天正元)年に織田信長の兵火で、正覚寺の前身である妙観寺が全山消滅して450年の年でした。『越前・朝倉氏関係年表』には、天正元年8月18日「信長、府中龍門寺に着陣する。信長の先兵、一乗の谷中、屋形を一として、館々、仏閣僧房、一宇も残さず放火する。3日間焼くという」と記載されていますが、同時期に妙観寺も放火されたのかも知れません。

▲妙観寺の寺跡は今でも字名「妙観寺・みょうかじ」として町内に残っており、古地図を見ると、その東には「門前出」「寺ノ前」などの字名もみられます。この地には200年以上妙観寺が存続していました。数え切れないほどの多くの人が妙観寺に集って仏法を聴聞していたのでしょう。

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『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著を読んで

笹百合と涙雨 2025.06.12

笹百合の後ろ姿 2025.06.12  

笹百合の蕾 2025.06.07

笹百合 ともに生きる 2025.06.12 

 

お釈迦さまの言葉
ダンマパダ129
すべての者は、暴力におびえ、すべての者は、死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

ダンマパダ103
戦場において、100万人に勝よりも、唯だ一の自己に 勝つ者こそ、じつに、最上の勝利者である。

 

今から80年前の昭和20年6月19日、ひめゆりの塔の壕に米軍からガス弾が放り込まれ、職員・生徒48名中、たった5名の生徒だけが奇跡的に生き残りました。生存者の証言が心に響きます。

 

『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著
「ガスだー、ガスだー」という声。
つづいて、「水はどこ、水は・・・・」と叫ぶ声。
「おかあさん」「おとうさん」「助けてー。苦しいよう」と叫ぶ声。
「○○ちゃん」と友を呼ぶ声、声、声ー。
「先生、苦しいよう!殺して!殺して!」
玉代勢先生!東風平先生」という絶叫。
まさに生き地獄です。阿鼻叫喚とは、こういうことを言うのでしょう。

 

著者の宮良ルリさんは大正15年生まれ。ここに書かれていることは20歳のときの出来事です。私の母は大正14年生まれなので、母親の人生と重なっているように思えます。

多感な年齢の時代に戦争を体験したのです。本を読んでいると胸が痛くなります。戦後80年。いまも戦争が絶えません。どこまで人間は愚かなのでしょう。アメリカはイランで同じ過ちをくり返すのでしょうか。

6月23日
太平洋戦争の終わりの頃
沖縄は日米の最後の決戦地になり
多くの民間人が犠牲になりました

『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著
「二度と私たちのような戦争体験をしてはならないのです」
戦争は人間を人間でなくしてしまうのです
「日頃の常識はまったくなくなってしまいます」
「軍隊は住民を守りません」
「年寄や子供たちのように弱い者ほどひどい目にあうあのです」

ひめゆりの女学生たちが学校生活を送った校舎前には
相思樹の並木が続いていたそうです

戦争は最大の暴力
二度と戦争をしてはいけません
そんな思いを新たにしました

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日露戦争のころ 群萌(ぐんもう)の歴史観 

写真の裏面

打敷の裏面


NHKで放送されているドラマ「坂の上の雲」を見ているのですが、日露戦争の旅順総攻撃の様子が繰り広げられていました。明治37年11月26日、乃木希典の率いる第三軍は旅順要塞に突撃しましたが失敗。第1次~第3次の総攻撃では日露双方で多くの戦死者がでました。

※ちなみに乃木希典明治6年1873年)3月、越前護法大一揆鎮圧のため鯖江にも来ているようです。

正覚寺第13代住職了念の長男了玄も召集を受け、この無謀な突撃に参加して壮烈な戦死をしています。本人の記録によると「明治37年9月1日午前8時入隊 歩兵第三十六連隊補充大隊に編入さる」と記され鯖江三十六連隊の一員として派兵されたことが分かります。鯖江三十六連隊は筆者の地元・福井県鯖江市の連隊です

了玄の参加した旅順第3回総攻撃では歩兵第三十六連隊の戦死者は110名です。また日露戦争全体の歩兵第三十六連隊戦死者数は1492名です。

福井県史によれば「この戦争における福井県兵士の戦没者比率の大きさは、全国第四位に位置している」と記されています。日露双方にどれだけ多くの悲しみがあったことか。

了玄の肖像写真はモノクロですが、退色もなく立体的で非常に繊細な表情が撮されています。当時の打敷が残されていますが、これは了玄一周忌法要の際に親族が寄進したものです。

この打敷を見ながら阿弥陀仏の願いを聞き、国家の権益より個人の尊厳を重んじる世のなかになってもらいたいと切に思いました。現在のウクライナ戦争の悲惨な様子を見るにつけ、仏教徒として考えなければならないことだと考えます。


無力なことかもしれませんが、このようにしてブログに書くことしか思い浮かびません。一人の無力な仏教徒として、野花の投稿をしながら非戦平和の願いを届けたいと思っています。

踏みにじってはいけないと思うから。踏みにじられたものたちの呻き声が聞こえてくるから。

坂の上の雲」でえがかれている歴史観とは異なりますが。弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)つと見えてくる群萌(ぐんもう)の歴史観があります。

 

すべての者は、暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって、生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
お釈迦さま(ダンマパダ130)

 

御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ。
親鸞聖人御消息

越前水仙のやさしい香りのように、お念仏の香りがひろがってもらいたいものです。
戦争で犠牲になったすべての人に献げます。

越前水仙

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和に学ぶ

冬の本堂

軒裏(のきうら)の美 軒裏を見上げてください

軒裏(のきうら)の斗(ます)

斗(ます)と垂木(たるき)の美 ーとても美しいですー

荷重を支える隅の複雑な木組み ー彫刻も見事ですー

堂内の虹梁(こうりょう)と木組み ー芸術的な虹梁ですー

堂内中央の虹梁(左)と木組み ー長さ四間の欅材(一本) 彫りと深い彫刻が見事ですー

堂内中央の虹梁(右)と木組み 四間の欅材です

2018年豪雪の本堂には最大の荷重がかかりました

瓦を幾重にも積み重ねた隅棟には強い荷重がかかります 
落雪の時に隅棟が全部落ちてしまったこともありました

和に学ぶ

正覚寺本堂は今年で再建141年になりますが、建物の構造を見ていると宮大工の技術の素晴らしさが分かります。同時に木造寺院建築は仏教の精神に基づいた構造になっているのだろうと想像します。

正覚寺本堂にお参りになられた方は、是非ケヤキ(欅)の柱に掌(たなごころ)をあてて木の温もりを感じてください。正覚寺の本堂は文殊山の自然に和みながら佇んでいます。そして近隣の山で数百年間生きていた欅は現在本堂の柱となって仏法を支えています。

そして宮大工の技術で造られた木造寺院建築を美しさを実際に見て、そこに生かされている和の心に学んでいただきたいと思います。

木造寺院建物の多くは屋根が高くなっています。軒先が短いと建物の壁に雨があたりやすくなったり、参拝の利便にも支障を来たすので、必然的に軒は長くなります。しかし、軒先が長いほど荷重がかかるので、荷重を支える構造が必要になります。そのため垂木を太くしたり、本数を増やしたりしてきました。

軒先だけでなく更に荷重がかかる隅の部分には、ひときわ太い隅木が設けられています。特に瓦屋根では隅の部分で、幾重にも瓦を重ねた隅棟と先端の鬼瓦を支えることになり強い荷重が加わるので、荷重を分散するような木組みが複合的に用いられます。

また雪国独特の事情もあり、1メートル以上の積雪に耐えるように太い垂木が数多く用いられ、曲線になっている屋根の勾配も前後の屋根雪が均等に落下するようにつくられています。

『木に学べ』西岡常一著を読みながら、正覚寺の本堂を見ていると建物自体が重量を分散し衝撃や振動を吸収して和らげるような構造になっていることが分かります。釘をほとんど用いずに木の組み合わせだけでこのような建物を造ることができた、宮大工の英知には感動します。

部材はすべて工人が手作業で造った物ですから、同じ形の物は一つとしてなく、バラバラですが同時に一個として独立したものはなく、すべてが有機的につながってあっています。これは仏教の縁起にもとずくものだろうと思います。

軒裏・斗・隅などを見ていると形そのものが非常に美しいのですが、それ以上に形の個性も異なるもの同士がお互いに、有機的につながりあって荷重を分散し衝撃を和らげる構造になっていることに驚かされます。

これは人間関係のなかでも大切なことです。力による上下関係はいずれ破綻します。社会的矛盾を弱い人に押しつけてはいけないでしょう。特定の人たちに負担が押しつけられるのではなく、負担は分散して衝撃は和らげ、異なる個性をお互いに認めあい補いあって、和合衆(わごうしゅう)といわれるような和かな人間関係を構築する必要があります。

宮大工からも敬われている聖徳太子の十七条憲法の「和(やわら)かなるをもって貴(とうと)しとなす」を具現しているのが木造寺院建築なのかもしれません。

本堂にはお念仏の声がしみこんでいると聞きました。たしかにこの本堂でどれだけ多くの門信徒の口からお念仏の声がこぼれてきたのか、そしてその人たちがどのような人生を歩んだのか想像しています。

建物には大黒柱や心柱がありますが、私たち人間関係の心柱は阿弥陀如来の本願です。

ひとつひとつの構造が有機的的ですな。一個として、それだけ独立しているということはないんです・

飛鳥時代かそれ以降かを見分ける、簡単な方法を説明しましょうか。柱と虹梁のつなぎ目を見てください。一本の虹梁の端を斗というもので受けて、それを柱に伝えるわけですな。梁の上には、屋根の荷重を支える人形束があつて、建物の中心の荷重を両方の太い柱に分散して支えてますな。これは、たいへんな知恵と工夫で、飛鳥の工人の魂をここに見る感じがしますな。

『木に学べ』西岡常一著 小学館文庫

 

 

宮大工の口伝

塔組みは、木組み                           
木組みは、木のくせ組み                    
木のくせ組みは、人組み                    
人組みは、人の心組み                       
人の心組みは、棟梁の工人への思いやり    
工人の非を責めず、己の不徳を思え 

法隆寺を支えた木』NHKブックス

 

縁起(えんぎ)

あるものと他のものとの関係性をいうのであって、他の何物とも関わりなく条件づけられずに存在するものはないということである。

(中略)
あらゆるものは関係し合って成り立つものであり(中略)自ら単独で完結している、ものはないというとらえ方である。。
釈尊の教えとその展開 ーインド篇ー』本願寺出版社

 

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若狭三方縄文博物館 縄文土器

若狭三方縄文博物館の縄文土器
この力強さに圧倒されます。芸術作品と行ってよいのかそれとも生活用具なのか。
いずれにしても縄文人の感性には驚かされます。



















 

正覚寺の鐘楼

正覚寺の鐘楼が建てられたのは正覚寺第11代住職了空の頃(天保年間)だといわれています。今から約200年弱前のようです。
正覚寺は明治初期に類焼していますが、鐘楼は火災をまぬがれて寺基移転とともに現在地に移築されたのだろうと思われます。簡素な形式の鐘楼ですが細部を見れば幾何学的な地紋彫が施されていて見あきることがありません。

門信徒の皆さんが類焼を防ぐために懸命の消火活動をされたことでしょう。また建立に携わった宮大工の優れた技術も見逃せません。チョウナやヤリガンナも使ったのだろうと思います。

現在の梵鐘は昭和23年に富山県高岡で鋳造されたものですが、町内の方の話しに依れば、幼少の時梵鐘が来て数㎞はなれた鞍谷川に架かっている「のどはし」まで迎えにいった経験をされたそうです。

富山県高岡から北鯖江駅までは汽車で運んで、鞍谷川の「のどはし」まで近迎えに行き約50名の門信徒が短い荷車に紐をつけ引っ張って運んだということ。門徒の皆さんが出迎えにいったときの賑わいや喜びの様子が目に浮かびます。

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縄文の心

平和

昨年、若狭三方縄文博物館に行ったのですが、改めて縄文時代に関心をもちました。
特に掲示されていた言葉が印象に残りました。

縄文の心
縄文時代の遺跡からはさまざまな生活道具類が出土しています。他の時代にはあっても縄文遺跡にはないものがあります。それは人と人が集団で殺し合うための道具です。縄文時代に戦争はなかったのです。みんなで助け合い、分かち合って平和な暮らしを1万年以上もつづけました。それは、人類史の奇跡といってもよいでしょう。


AIもSNSもなかったけれど、圧倒的に豊かな自然環境のなかで、みんなで助け合い、分かち合って平和な暮らしをしていた縄文人
虚偽の情報に惑わされて争い合い、集団で殺し合う道具が発達した現代人。

どちらの心が豊かで、どちらの心が貧しいのだろう。

末法五濁(まっぽうごじょく)ということが現実のこととして思えるようになりました。

五濁
悪世においてあらわれる避けがたい5種のけがれのこと。
①劫濁
時代のけがれ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。 
②見濁
思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
③煩悩濁
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)などの煩悩が盛んになること。
衆生
衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。
⑤命濁→戦争 
衆生の寿命が次第に短くなること。

浄土真宗辞典』

 

約4100前の縄文土器



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福井県年縞博物館を訪ねて

福井県年縞博物館

福井県年縞博物館
福井県三方上中郡若狭町鳥浜の福井県年縞(ねんこう)博物館に行きました。周囲の環境も館内も、素晴らしい施設だと思います。職員の方も丁寧に展示物の説明をしてくださいました。

世界水準の年代のものさし
ここには、世界のどこにもない7万年分・45mの「ものさし」が展示してあります。水月湖の湖底に堆積している年縞は、考古学などで年代を決定する「世界水準の年代のものさし」になっているということです。

年縞の実物を見ながら、同時に人類や地球環境の7万年の歴史を学ぶことができます。

年縞の説明


日本史と年縞
私は日本史が大好きですが、この年縞には当然の事ですが、お釈迦さまの時代の年縞や、鎌倉時代室町時代の年縞も含まれています。

日本の中世では、異常気象などで数百万人規模の人が餓死するというような大飢饉が、何度かありました。そのことは庶民が宗教に救いを求めたことと、無関係ではありません。

そのような歴史的事実の背景にある、地球環境・気候の変動を知る手がかりになるかもしれないと思いました。

私の住んでいる地区には縄文時代の遺跡がありますが、その当時の環境や暮らしも想像できるような気がします。

とてもスケールの大きい「ものさし」です。興味は尽きません。


帰りには
帰りには『解説書』とグッズを購入しました。ロゲットカードもいたたきました。

 

ロゲットカード

オリジナルグッズ


2022.07.26

2024年12月福井県年縞博物館に行きました。観覧したのは今回で2回目。もう一度観覧したいと思いながら実現しませんでしたがようやく再訪。前回は写真撮影ができるとは知らなかったのですが、フラッシュを使わなければ撮影可能だと知り今回は写真撮影。
購入した解説書を見ながらふり返っています。
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水月湖の年縞は、年代決定の世界標準の「ものさし」に採用され、世界の歴史、考古学に欠かせない役割を担うまでになった。7万年の縞々には過去の気候の移ろいも記録されている。
 『年縞博物館 解説書』より
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福井県に世界標準の「ものさし」を展示する博物館があるのは素晴らしい。
個人的には平安時代末期~室町時代の気候変動が知りたいと思っています。気候変動が中世の大飢饉に与えた影響など・・・。
それから量(はかり)につていも関心があります。有量と無量。
45メートルのステンドグラスで展示されている7万年の年縞は実際の水月湖の地層で、7万年の歴史のなかでは自分自身がとても小さく見えてきます。
また知識がなくてもステンドグラスそのものの美しさも楽しめました。