よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

地下で蓄えたカタクリの生命力

カタクリの生命力

カタクリの芽 2024.03.07 文殊

雪が融けるのを待ち、先の尖った芽が固い土や落ち葉の壁を貫通して地表に顔を出します。

カタクリの芽 2024.03.06 文殊山麓


地表に出た芽は徐々に1枚の葉を展開して次につぼみがついた花茎が伸びてきます

カタクリのつぼみ 2024.03.03 文殊山麓

 

初めは上を向いていたつぼみは、花茎がのびて大きくなるのにしたがって下を向くようになります。

花茎が10cm~15cmほどにのびるといよいよ開花です。

写真のつぼみはそろそろ開花でしょう。開花した後に葉が2枚となります。

 

1年の10ヶ月程は地下で過ごし力をたくわえています。先端が尖ったつぼみは精悍な姿で生命力にあふれています。

開花前のカタクリを見ることができるのは今です。

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    地下で蓄えたカタクリの生命力

麒麟(きりん)でなんだろう?

麒麟(きりん)でなんだろう?

1.御堂のなかで

西本願寺 手前が御影堂 奥が阿弥陀堂 (国宝)

京都の西本願寺には何度もお参りしました。法要があるとき以外にも阿弥陀堂や御影堂にお参りします。時には堂内に一人だけのこともあります。

お念仏を称え合掌礼拝した後、かなり長い時間一人で座って、ぼーっとしています。天井が高く、広い空間のなかにいると時間が止まっているように感じます。スマートフォンも見ません。時にはSNSも遮断します。ぼーっとしているのはとても好きです。

そしてその後は、太い柱のまわりを回ったり、柱の年輪を観察したり、柱にさわってみたり。太い柱に手のひらを広げてそっとあてると、木の温もりが伝わってきます。木と会話をしているような気分になります。樹齢数百年の大木が山で茂っていたときのことを想像したり・・。警備の人に怪しまれないように。

この木はどれだけ多くのお念仏の声を聞いてきたのだろう?
この木はどれだけの重さを支えているんだろう?

2.御堂のまわりでは
御堂を出たら外縁の板もながめます。どれだけ多くの参拝者がこの板の上を歩いたのだろう。参拝者を支え続けていた板でした。だれもお礼は言わないけれど・・・。そんなことも想像します。木のすき間を埋める埋め木(うめき)には職人さんの遊び心が溢れています。魚や軍配の埋め木もあります。

それから木組みを見たり彫刻や絵画も観察します。彫刻や絵画には多くの花や動物も彫られたり画かれていたりします。花の種類や名前も気になります。

宮大工さんの話しを聞いたり、宮大工さんの本を読んだりすることが大好きです。正覚寺に来ていただいている大工さんや、瓦職人の方にもいろんなことを質問します。宮大工さんだけではなく、いろんな職人さんの話しを聞くのが大好きなものですから。

3.麒麟(きりん)てなんだろう?
①唐門の彫刻
唐門には唐獅子や麒麟の彫刻があります。

唐門(国宝)

唐獅子

唐獅子

 

麒麟(きりん)

麒麟(きりん)

麒麟(きりん)

麒麟といえばビールでおなじみですが、伝説上の生き物だとされています。いったい麒麟とはなんだろう?仏教とどんな関係があるのだろう。相棒の杉下右京ではないけれど「細かいことが気になります」

③一角獣(いっかくじゅう)

角(つの)が一本あるようですが、これがヒントでしょう。古今東西を問わず一角獣(いっかくじゅう)は不思議な生き物とされています。西洋でいえばユニコーンです。

麒麟(きりん)と犀(さい)

ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫には次のように書かれています。
「犀(さい)の角(つの)のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶(きよほうへん)にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えらる生活をしている独覚(どっかく)」に相当する。

そのあと中村元さんは、犀のことをなぜ漢訳者は「麒麟」と訳したのかということについて、中国の人たちには犀はあまり知られておらず、キリンのほうになじみがあったからではなかろうかと推測しています。

中国の人はインドの犀(さい)という動物を見た人がなく、該当する言葉もなかったので麒麟(きりん)という言葉に当てはめたのかも知れません。

以前に研修会で仏教学者・佐々木閑さんの講義を聞いたのですが、同じようなことを言われたように記憶しています。

ブッダのことば』には「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」と言う言葉がくり返し書かれています。「人と優劣を比べることなく、毀誉褒貶(きよほうへん)に左右されずに自分の道を歩みなさい」そんなブッダからのメーセージのような気がします。

ビールを飲むとき麒麟の逸話を考えてみるのもよいのではないでしょうか。酔いが醒めてしまうかもしれませんが・・・。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪えて恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫 18頁

4.飛雲閣と鐘楼
飛雲閣

飛雲閣(国宝)


飛雲閣は、二層三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られています。三十六歌仙の絵が描かれています。ちなみに京都の三閣は金閣銀閣飛雲閣です。

②鐘楼

鐘楼

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飛雲閣の近くには鐘楼があります。

『サンダカンまで 私の生きた道』 山崎朋子著を読んで

1.山崎朋子と片上小学校


福井県出身のノンフィクション作家で、女性史研究家としても知られる山崎朋子さんは『サンダカン八番娼館』では、大宅壮一ノンフィクション賞受賞した方です。

彼女は21歳のときの、1953(昭和28)年4月から1954(昭和29)年3月まで、福井県鯖江市・片上小学校(かたかみしょうがっこう)の教諭をして3年生の担任をしていました。

この本には彼女の波乱に満ちた生涯が記されていますが、そのなかで鯖江市・片上小学校の教諭をしていたときのことについては、ほのぼのとしたエピソードが綴られています。当時の教え子だった方もおられるはずです。

また、その当時のことが詳細に記されていて、教諭として生徒たちにいかに慕われていたのかがよく分かりました。
また、当時の片上地区で暮らす子ども達の素朴な様子も、詳しく書かれています。

学校から家に帰ったあと、焚木(たきぎ)集め・風呂の水汲(みずく)み・子守・畑の草取りなどを為ているのである。そして自身のおやつはというと、春はすかんぽ、いたどり・木苺・茅萱(ちがや)の若穂など、秋は山柿・山梨・栗・あけびなどを採って済ませているのだった。

『サンダカンまで 私の生きた道』
 山崎朋子著 朝日文庫

 

2.70年前の暮らし

私は昭和29年2月生まれなので、私が生まれたときにはまだ片上小学校に在籍していたことになります。
本に書かれている当時の子ども達の暮らしや遊びは、私自身の子どものころとそんなに変わっていません。

当時、我が家の風呂は五右衛門風呂だったので風呂の水汲みもしたし、風呂や囲炉裏の火を燃やすための焚木集めもしました。片上地区では「たきもんひろい」といっていましたが。囲炉裏の火の番は子どもの仕事。渋柿は母親ととりました。私が先端を二股にした竹で、柿の小枝を挟みながら回し柿を絡めて、母親が手に持つ籠に入れます。
編み物をほどいた毛糸を母親と協同作業で大きな玉にしたり。

栗は木に登り小栗でも食べたように記憶しています(ほとんど食べれそうなところがなくても)。栗のイガを片足で踏みつけ、棒を使ってイガをとります。そして薩摩守で皮をむいて食べる。とにかく何でも食べれそうなものは食べてみました。銀杏は石で叩きたき火の中に入れて焼く。石で叩かないとボン!と破裂します。

スキーは手作りの竹スキー。蝋燭の残蝋をスコップの上に乗せ焚火で温めて溶かした後、スキーの底に塗ればよく滑る。冬はたこあげや独楽廻し。

 

3.底辺人間史


さて本題にもどります。

山崎朋子のその後の人生についても共感できます。
「サンダカン八番娼館」文春文庫も読みはじめていますが。著者が底辺女性史をライフワークとしていたことに共感しています。

私は歴史が好きですが、勝者や勇者の歴史ではなく、底辺に生きる庶民や挫折した人の歴史が好きです。歴史に名を残さない、そんな人びとにも歴史があります。声をあげられない人にも心の声があります。底辺人間史といってもよいと思います。

よく考えてみると、この地球自体が生きとし生けるものすべての「墓」だとも思えてきます。

生き倒れになった人、餓死した人、戦死した人、そして誰にも葬られなかった人も、無数にいたことでしょう。化石燃料だって古代に生息していた動植物の死骸が地中に埋もれて、長い年月をかけて地熱や地圧の影響を受けて変化したものだといわれています。恐竜だって同じです。現代の私たちはその恩恵を受けているのです。

そんな地球の上にも花は咲きます。

4.社会的弱者

星の瞳(別名オオイヌノフグリ


大地の底辺に咲く野花を撮るのも、地を這(は)うようにして咲く小さな野花と、世のなかの底辺に生きる社会的弱者が重なっているように思えるからです。だから決して尊厳を踏みにじってはいけないと思うのです。社会的弱者にも心には美しい花が咲き、清らかな香りもします。

長い文章になりました。本の続きを読むことにします。

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花と草と虫に学ぶ

花と草と虫に学ぶ 

1.ある寺院の寺報より
昨年秋、ある寺院の報恩講法座にご縁をいただきました。法話のあと御文章を拝読したのですが、御文章箱のなかにその寺院の寺報が入っているのが目にとまりました。書かれていたのは
『雑草という名の草はない 害虫という名の虫はいない』
という言葉。

法座の後、その寺報をいただいて帰り、改めて読み直したところ肯くことが多くありました。人間はとても傲慢(ごうまん)な生きものなのかもしれない。もっと謙虚に自然に学ぶべきなのではないでしょうか。

紙面に書かれていた文面を紹介します。

『雑草という名の草はない』とは植物学者の牧野富太郎博士の言葉とされています。
また、生物学者でもあった昭和天皇は、あるとき『人間の一方的な考え方で、雑草と決め付けてはいけない。注意するように』言われました。

確かにどんな草にもしっかりと名前があります。また、「害虫」という名の生き物もいません。人間にとって役に立つか立たない事で区別し、少しでも害をもたらすものを、一方的に「害虫」と名付けているのです。

『人間は植物なくては生活のできない。つまり、人間は植物に向こうてオジギをする立場である』とも、牧野博士はのべています。 

阿含経(あごんきょう)』に『此ある故にかれありこれ起こる故にかれ起こる。これ故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅する。』とあります。

すべての生き物は、『縁起(えんぎ)』の教えにあるように無数の繋(つな)がりの中で生かされている存在です。お彼岸をご縁に、懺悔の心でお礼致しましょう。

 


2.今年いただいた年賀状より
今年ある方よりいただいた年賀状に書かれていた言葉

四葉のクローバーを見つけるために
三つ葉や名もなき花を
踏みにじってはいけない
幸せはそんな風に探すものじゃない
『心が晴れる40のコトバ』著者吉村隆真より

なるほどなぁ!

花と蝶

3.人間に注意!
あちこちに「クマに注意!」の看板が掲示されています。

でも本当は「人間に注意! とても傲慢で危険です!」と書かれた看板が必要なのかもしれません。

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正覚寺の建造物

                                             鯖江市歴史的建造物調査資料
                                                      

1.概観(がいかん)

概観


浄土真宗本願寺派。妙観山と号し、集落の北に迫る山裾(やますそ)の高台にたつ.山門はないが、本堂、鐘楼、経蔵、庫裏を備え、本堂と庫裏の間に望楼(ぼうろう)を上げるなど整った寺観を呈している。

 

2.本堂(ほんどう)

本堂外観

本堂内

内陣


本堂は桁行(けたゆき)9間、梁間(はりま)9間、入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物で、正面に幅3間分の向拝(こうはい)がつく。

内部は前方梁間(はりま)3間分を溜まり、その後方に幅1間半の外陣(げじん)をとる。後半部は中央が内陣(ないじん)で、その背面は中央に後戸(うしろど)をたて、両脇を脇壇(わきだん)とする。

内陣の左右はともに12畳大の余間(よま)である。

内陣の正面は両折れ戸、余間・外陣境は襖立てで、内法には金箔の彫刻欄間がみられる。 

平面構成や華麗(かれい)な内部空間、意匠はまさに真宗の後門形式本堂の典型である。外周りは、正面が両折れ桟唐戸(さんからど)で、内法ガラス入り菱格子(ひしこうし)を入れている。

柱上には台輪(だいわ)を回し、組物(くみもの)は拳鼻(こぶしばな)付き出組(でぐみ)、軒支輪(のきしりん)つき、頭貫(かしらぬき)や内法虹梁(うちのりこうりょう)の絵様は簡素である。

内法虹梁の木鼻(きばな)は獅子頭(ししがしら)で隅柱の中ほどにつく。
向拝の水引虹梁(みずひきこうりょう)の木鼻はS字型の特徴的な龍の丸彫り影刻である。

 

3.経蔵(きょうぞう)

経蔵

経蔵の彫刻

本堂右手前方の高台にたつ経蔵は「法宝蔵」の篇額(へんがく)を掲げている。

宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、外壁や軒廻りを白漆喰(しろしっくい)で塗り込め、腰は下見板を張る。前方に向唐破風屋根(むかいからはふやね)で銅板葺の向拝(こうはい)を張り出す。

この向拝部は木部(もくぶ)を露見するが、獅子(しし)の木鼻(きばな)や中備(なかぞなえ)の龍、内法の獅子など彫刻が豊富にみられ、彫りの質も高い。建築年代は本堂の翌年、明治17年(1884)である。

 

4.鐘楼(しょうろう)

鐘楼


本堂の前方にたつ鐘楼(しょうろう)は、切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、切り込みハギの石垣基壇(いしがききだん)にたつ。

頭貫(かしらぬき)と台輪(だいわ)に地紋彫(じもんぼり)がみられ、拳鼻付(こぶしばなつ)きの平三斗(ひらみつど)がつく。

妻は虹梁(こうりょう)・大瓶束(たいへいづか)で、柱の転びが緩(ゆる)く、簡素な形式の鐘楼(しょうろう)である。この鐘楼は明治の火災後の再建に際し、他所から移築されたと伝わっている,

様式的にみて江戸末期の建立とみられる。当寺では天保ころの建築と伝わっているが、この言い伝えはほぼ妥当であろう。

 

正覚寺140年の歴史

1.寺基移転・本堂再建・鐘楼移築140年

正覚寺本堂

▲2023(令和5)年は正覚寺が現在の場所に寺基を移転してから140年の年でした。以前は現在地より下の場所に堂宇があったのですが、1869(明治2)年の四方谷大火で火災に遭い、さらに1873(明治6)年には仮御堂が火災に遭いました。 

▲その後1883(明治16)年に現在地に寺基を移し本堂・庫裏・書院を再建しました。13代住職里見了念のころです。鐘楼は火災を免れて現在地に移築したものだろうと考えられています。

▲重機も電動工具もなかった時代に、どのようにして基礎を築き、木材や石材を運んだのでしょうか。また、どのようにして木材や石材を加工し、釘を使わずに木組みをしたのでしょうか。宮大工や石工の優れた技術はもちろんですが、その多くが門信徒の皆さまが人足として奉仕したものだったのでしょう。正覚寺を支えているのは門信徒の皆さまです。

 

2.御経堂建立140年

御経堂と鐘楼

▲また、今年は御経堂が建立されて140年になります。1884(明治17)年に某氏の寄附により建立されました。建物は見事な彫刻で飾られています。

 

3.織田信長の兵火で全山焼失して450年

四方谷古地図

▲さらに昨年は1573(天正元)年に織田信長の兵火で、正覚寺の前身である妙観寺が全山消滅して450年の年でした。『越前・朝倉氏関係年表』には、天正元年8月18日「信長、府中龍門寺に着陣する。信長の先兵、一乗の谷中、屋形を一として、館々、仏閣僧房、一宇も残さず放火する。3日間焼くという」と記載されていますが、同時期に妙観寺も放火されたのかも知れません。

▲妙観寺の寺跡は今でも字名「妙観寺・みょうかじ」として町内に残っており、古地図を見ると、その東には「門前出」「寺ノ前」などの字名もみられます。この地には200年以上妙観寺が存続していました。数え切れないほどの多くの人が妙観寺に集って仏法を聴聞していたのでしょう。

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足元に咲く野花

野菊

野菊

投稿しているのは主に観光名所ではなく 
住んでいる鯖江市片上地区の平凡な自然です

平凡な人間が
平凡な日常の
平凡な野花を
愛でる
そんな豊かな世界に惹かれています

4~5年前までは
年中無休 仕事中心の日々で
花や小動物のことなど
考える余裕もありませんでしたが
ふと足元を見たとき
知らない花や小さな生き物たちが
目にとまるようになりました

見ようとしなければなにも見えてこない
聞こうとしなければなにも聞こえてこない

身近な人の姿も見えていないし
身近な人の聲も聞こえてこない

それだけではありません
お念仏の聲も聞こえていなかったし
自分自身の姿も見えていませんでした

なにも分からないということが分かる
そんな世界があります

外見を飾り内は虚(むな)しい私は
外見を飾らない素朴な野花が美しいと
思えるような人間になりたいと思っています

そして足元に咲く野花を踏まないようにしたい・・・
宇宙は遠い彼方ではなく
私の足元にあるのかもしれない

一花一人一期一会

お念仏を称えながら聞こえてくる
阿弥陀仏の願いに導かれて生きたい

 

片上地区の自然

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正覚寺の自然

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現の証拠と御輿草

ゲンノショウコとミコシグサ

ゲンノショウコ(現の証拠)からミコシグサ(御輿草)になるまでを観察しました。
花の咲き始め-花が開ききった時-花が散り果実が熟するまで-果実が熟して5裂し種子を巻き上げて飛ばすー種子を飛ばした後の形はお神輿の屋根のように。

いましばらくの期間(10月~11月)は花と御輿草を同時に見ることができます。西日本は赤色が多く東日本は白色が多いといわれていますが福井県は両方あるようです。
開ききった花を見たければ晴れた日の正午前後の時間がよいと思います。

下痢止めの薬として使われ服用するとたちまちに効験が現れるので現の証拠と言われるようになりました。ドクダミ、センブリ、ゲンノショウコは日本の三大民間薬とされています。

鯖江市片上地区には縄文時代の遺跡がありますが、かたかみ縄文人も食用にしていたようです。

2023.10.21福井県鯖江

 

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ノダケ(野竹) 野武士のごとく

2023.10.01   野竹 節があり竹のように一本立ち 

2023.09.29  ノダケ(野竹)

2023.10.01

2023.10.01 3㎜ぐらいの花

2023.10.01

2023.10.03

2023.10.05 葉鞘が開いて花序が展開し始めた時 この時を待っていました!!

2023.08.24 開花前 全体の姿

2023.08.24 葉鞘に包まれた花序

食事に来た ヒメスズメバチ? そ~っと記念撮影!

 

ノダケ(野竹)セリ科シシウド属


山際に一本だけ咲いているこの花のことが、ずっと気に掛かっていました。いつ花が咲くのだろうか気になって時々観察。葉鞘が開いて、小さな花の集まりである花序が大きく展開する時を1ヶ月ほど待っていたのですが、やっとその時の様子を撮影できてとても感動しました。

花の写真を撮っているとき目の前にスズメバチが一匹やってきて、花で蜜を吸い始めました。敵意がなさそうだったので静かに花と一緒に記念撮影。あとで調べるとスズメバチはノダケが大好きだということ。それにどうやらこのスズメバチはヒメスズメバチという比較的穏やかな性格のスズメバチだそうです。ああよかった!。

それにしても、この花はなんて個性的でなんだろう。とても存在感があるし野性味も溢れている。

節があり真っ直ぐに一本立ちをしている様子は、まるで野武士のような印象。しかも黒みがかった紫色はいぶし銀のようにも見えます。近くに咲いていても気づかないことも。なんだかずーっと見ていたくなるような花です。

俳優でたとえるなら高倉健高倉健は映画「八甲田山」の撮影中は雪のなかでずっと立ちっぱなしだったとか。そうなんですよ。自分の責任を果たすまでは座れなかったのでしょうね。

歌でたとえるなら河島英五の「時代おくれ」。写真に映えることが求められる今、映えることを拒んでいるようにも見えます。時代の流れにのらないし時代に流されない、それもいいじゃないですか。それに群れないことも。

時代おくれ
ねたまぬように あせらぬように かざった世界に 流されず
目立たぬように はしゃがぬように~時代おくれの 男になりたい

いい歌だなぁ! 時代おくれの男になろう!

数日前、ノダケの様子を見に行ったところ、強い風雨のためでしょうか、根元から倒れていました。野に咲き、野に倒れる。それもこの花らしいのかもしれない。

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正覚寺の歴史

妙観山 正覺寺


正覚寺700年の歴史は片上地区四方谷の豊かな自然と、この土地で平凡な暮らしを営んできた多くの人たちに支えられてきた歴史です。数え切れない多くの人々によってお念仏の声が伝えられてきた歴史でもあります。
 
正覚寺の開基は了観という人です。了観の元の名は里見成純で鎌倉末期の武将・里見時成の子といわれています。里見時成は1333年、新田義貞の鎌倉攻めに従い鎌倉幕府を滅ぼしました。

その後も義貞のもとで足利尊氏と戦いましたが、戦いに敗れ義貞らと共に越前に逃れてきました。時成は1337年1月11日越前金ケ崎城の救援にむかった際、足利方の今川頼貞軍に敦賀で討たれたということです。太平記の『越前府軍金崎後攻事』に記されています。

非常に激しい戦いだったようです。戦死した時成の子成純は、四方谷の人に養われるところとなり、後に剃髪して了観と名告り四方谷の西南山麓禅宗の堂宇を建立しました。妙観寺と称し寺跡は今も残っています。

はっきりした史実は分かりませんが、時成の戦死は28歳頃と考えられ、幼子のいたことは想像できます。

成純が出家した理由は、仏道を歩む志があったためなのか、あるいは足利幕府の追求から逃れるためだったのか定かではありません。確たる史実が残っているわけではないので伝承の域をでません。
ただ想像をたくましくすれば父親の無慚な最後を見て、怨みを捨てて仏道を求めたのではないでしょうか。

武門の家を捨てて一人の仏弟子として仏道を歩もうとしたように思えてなりません。お釈迦様の「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」という言葉を思い起こします。

いずれにしても文殊山麓の四方谷には豊かな自然があり、親を失い深く傷ついた幼い子どもを、あたたかく受け入れた人々がいたのでしょう。可憐なカタクリの花をつつむ春の光のような風光です。

正覚寺は当初は禅宗でしたが室町時代(1500年代)浄土真宗に改宗しました。天正元(1573)年改宗して初代住職了純の時、織田信長の兵火に焼かれ妙観寺は焼失しました。またも戦乱に巻きこまれたのです。

その後2代住職純誓の時、妙観山正覚寺と称し現在のご本尊(阿弥陀如来)を安置するようになりました。この時に四方谷の正西に移住しました。明治初期までこの地にありましたが火災に遭い、明治16年に移転し建立したのが現在の本堂です。

掌で包むように、低い山々で包まれ最も奥まった場所に位置する正覚寺の風光は、あたかもすべてのいのちを摂めとり見捨てない、阿弥陀如来の心のようです。争いのない平和な世のなかをめざしたいものです。


2.023.09.27追記

週刊少年ジャンプ」で連載中の歴史マンガ
『逃げ上手の若君』が話題になっているようで
今日放送のNHKの番組「歴史探偵」で特集されていました

正覚寺開基といわれている里見成純の父・里見時成は
同時代(南北朝時代)の武将として新田義貞とともに
鎌倉幕府を滅ぼした青年武将だったようです
最終的には新田義貞とともに越前に逃れてきて
金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをします
その顛末は太平記に記されています
確かな資料が残っているわけではありませんが
伝承として伝えられています

今まで南北朝時代はあまり人気がありませんでしたが
少し変わってきたようです
応仁の乱も最近脚光をあびるようになりました
歴史好きの虫が動いてきました

勝者や強者の歴史ではなく弱者の歴史を繙きたいと思います

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撫子(なでしこ)さんありがとう

撫子さん 2023.08

撫子さん 2023.08




撫子(なでしこ)さんありがとう

撫子(なでしこ)さん 

あなたを植えたのは
2022年9月でした
それからあと 
秋も冬も春も夏も
いろんな色の花が
ずーっと咲いていました

大雨のときも
霜が降りたときも・・・

降雪のときは
雪が融けたら花がでてきて
驚きました

春になったら
もの凄く元気よく背が伸びて
花の数も
びっくりするほど増えました

梅雨の大雨と夏の酷暑にも
よく耐えてきました
氷点下から40℃までの
温度差にも耐えぬきました

でも 
もう頑張らなくても
いいですよ

色が褪せても 
枯れても 
萎れても

そのままで美しいですよ

1年間 
楽しませてくれてありがとう!!
花の縁が尽きるまで見届けますよ!!
花も人も同じ「いのち」だから

2023.08.17

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治左川の梅花藻(バイカモ) 福井県域準絶滅危惧種

福井県越前市上真柄町 治左川の梅花藻(ばいかも)

福井新聞 『越山若水』2023.8.8

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龍谷大学世界仏教文化センター 研究セミナーに参加して

龍谷大学世界仏教文化センター 研究セミナーに参加して

先日、龍谷大学教授・中西直樹先生より研究セミナーの案内をいただきWeb参加しました。中西直樹先生には以前から正覚寺13代住職・里見了念のことを調べていただいているのですが、かなりわかってきたということです。今回のセミナーでは酒生慧眼の業績が中心でした。

中西直樹先生は正覚寺に調査のため来られたこともありますし、今まで随分多くの書籍や資料を送っていただいています。

里見了念は明治時代にや龍谷大学前身校の一つである「普通教校」や北陸高校の前身校「羽水教校」の実質的校長として創立に深く関わっていました。
今回の資料を見たところ、普通教校出身地別同窓生数では越前が62人と最も多く輩出しています。

本願寺教団を改革しようとした人たちでしたが、教団の保守回帰勢力に阻まれて、次第に教団の歴史からも忘れられていったようです。

その人たちがめざしたのは、教義や経典の理解にとどまるのではなく、教義を社会のなかで、どのように実践していくかを模索していたようです。このことは現代でも大きな課題だといえます。

 

私見 研究セミナーを聞き終えて

なぜ越前からそのように多くの人材を輩出したのか、研究セミナーを聞き終えて考えてみました。

私見ですが明治初期の越前は西洋科学を積極的に導入しようとする機運が非常に強く、藤島高校の前身である藩校の「明道館」や「明新館」では最先端の理化学なども教えていました。当時グリフィスも理化学を教えていました。

そのような状況を作り出すのに大きな影響を与えたのが、幕末の越前藩主松平春嶽橋本左内です。10代で大阪の適塾に学んだ橋本左内は国際社会や世界情勢を冷静に見抜くような見識を持っていました。グリフィスも橋本左内に大きな影響を受けたようです。

グリフィスは朝昼晩と絶えず生徒・学生と接触して、学校では科学、物理、ドイツ語、フランス語、英語会話、実験を教え、家では訪ねてくる学生をはじめ、住み込みの学生に歴史、法律等を話して聞かせ、化学、生物を教えていたようです。

藩校明新館は武士以外にも解放されていたので、おそらく多くの僧侶も学んだり影響を受けたものと推測されます。

グリフィスの生徒の一人に鯖江市松成町満願寺出身の今立吐酔(いまだてとすい)がいます。ペンシルベニア大学に留学した今立吐酔は、帰国後さまざまな要職に就き昭和初期に鈴木大拙とともに『歎異抄』を日本で最初に英訳しました。

北陸高校の前身「羽水教校」もこのような潮流のなかで創立されました。教義の理解だけでなく、語学や科学的知識も学んで世界の仏教徒と交流できる人材の育成を目的としたのでしょう。このことは現在の北陸学園関係者もあまり知らないことだろうと思います。「羽水教校」は「普通教校」の福井版といってもよいのではないかと考えています。

明治期の福井県におけるこのような状況は、周知されていないように思います。明治初期の福井県における護法一揆のことも分からないことが多くあります。

いずれにしても明治期の本願寺教団改革の中心的役割を果たそうとしたのが、正覚寺13代住職里見了念だったようです。

正覚寺13代住職 里見了念略歴 平成29年「正覚寺だより」より

 

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花はす公園 その1

福井県南越前町 花はす公園 

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2023.07

 

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