よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

正覚寺の歴史

妙観山 正覺寺


正覚寺700年の歴史は片上地区四方谷の豊かな自然と、この土地で平凡な暮らしを営んできた多くの人たちに支えられてきた歴史です。数え切れない多くの人々によってお念仏の声が伝えられてきた歴史でもあります。
 
正覚寺の開基は了観という人です。了観の元の名は里見成純で鎌倉末期の武将・里見時成の子といわれています。里見時成は1333年、新田義貞の鎌倉攻めに従い鎌倉幕府を滅ぼしました。

その後も義貞のもとで足利尊氏と戦いましたが、戦いに敗れ義貞らと共に越前に逃れてきました。時成は1337年1月11日越前金ケ崎城の救援にむかった際、足利方の今川頼貞軍に敦賀で討たれたということです。太平記の『越前府軍金崎後攻事』に記されています。

非常に激しい戦いだったようです。戦死した時成の子成純は、四方谷の人に養われるところとなり、後に剃髪して了観と名告り四方谷の西南山麓禅宗の堂宇を建立しました。妙観寺と称し寺跡は今も残っています。

はっきりした史実は分かりませんが、時成の戦死は28歳頃と考えられ、幼子のいたことは想像できます。

成純が出家した理由は、仏道を歩む志があったためなのか、あるいは足利幕府の追求から逃れるためだったのか定かではありません。確たる史実が残っているわけではないので伝承の域をでません。
ただ想像をたくましくすれば父親の無慚な最後を見て、怨みを捨てて仏道を求めたのではないでしょうか。

武門の家を捨てて一人の仏弟子として仏道を歩もうとしたように思えてなりません。お釈迦様の「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」という言葉を思い起こします。

いずれにしても文殊山麓の四方谷には豊かな自然があり、親を失い深く傷ついた幼い子どもを、あたたかく受け入れた人々がいたのでしょう。可憐なカタクリの花をつつむ春の光のような風光です。

正覚寺は当初は禅宗でしたが室町時代(1500年代)浄土真宗に改宗しました。天正元(1573)年改宗して初代住職了純の時、織田信長の兵火に焼かれ妙観寺は焼失しました。またも戦乱に巻きこまれたのです。

その後2代住職純誓の時、妙観山正覚寺と称し現在のご本尊(阿弥陀如来)を安置するようになりました。この時に四方谷の正西に移住しました。明治初期までこの地にありましたが火災に遭い、明治16年に移転し建立したのが現在の本堂です。

掌で包むように、低い山々で包まれ最も奥まった場所に位置する正覚寺の風光は、あたかもすべてのいのちを摂めとり見捨てない、阿弥陀如来の心のようです。争いのない平和な世のなかをめざしたいものです。


2.023.09.27追記

週刊少年ジャンプ」で連載中の歴史マンガ
『逃げ上手の若君』が話題になっているようで
今日放送のNHKの番組「歴史探偵」で特集されていました

正覚寺開基といわれている里見成純の父・里見時成は
同時代(南北朝時代)の武将として新田義貞とともに
鎌倉幕府を滅ぼした青年武将だったようです
最終的には新田義貞とともに越前に逃れてきて
金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをします
その顛末は太平記に記されています
確かな資料が残っているわけではありませんが
伝承として伝えられています

今まで南北朝時代はあまり人気がありませんでしたが
少し変わってきたようです
応仁の乱も最近脚光をあびるようになりました
歴史好きの虫が動いてきました

勝者や強者の歴史ではなく弱者の歴史を繙きたいと思います

blog.hatena.ne.jp

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp

www.facebook.com

www.facebook.com

ja.wikipedia.org