敦賀市樫曲(かしまがり)は南北朝時代、正覚寺ゆかりの武将・里見伊賀守時成が瓜生保(うりゅうたもつ)らと壮絶な討死をした場所で、瓜生保の墓もあります。
伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。
南北朝の争いで、戦闘はかなりの激戦であり凄惨な様相だったようです。詳細については太平記に記されているので関心がある方はお読みください。
樫曲は旧北陸道が通っており道沿いには木ノ芽川が流れています。古来多くの人がこの地から木の芽峠に至る道を往来したのでしょう。
2024年6月思いたって樫曲を訪ねてみました。以前、この地区の寺院の法座に何度か伺ったことがあり、およその場所はおぼえていました。この地を訪ねて戦死した人たちを偲び読経をいたしました。
正覚寺は古は禅宗であり妙観寺(みょうかんじ)と称していました。妙観寺の開基了観の元の名は里見成純といい新田氏の一族里見時成の子だといわれています。南北朝時代、里見伊賀守時成は足利尊氏との戦いに敗れ、新田義貞らと共に越前に逃れてきたが、1337年金ケ崎城の戦いで瓜生保らとともに激戦の末戦死したということです。
敦賀市樫曲(かしまがり)には瓜生保が戦死した場所に記念碑が建てられています。
里見時成と正覚寺の関係については確証はありませんが、若干想定できることもあります。それは継承している名称です。妙観寺は天正元年に織田信長の兵火で焼失しました。その時に多くの資料が消滅したため、意図的に名称を継承したとも考えられます。
「観」了観と妙観寺。
「成」里見時成、里見成純(剃髪後の名は了観)。
「純」里見成純、浄土土真宗に改宗して初代の住職・了純、2代住職・純誓。
歴代住職に多い「了」の名 了観、了純、了意、了雲、了正、了閑、了圓、了然、了空、了性、了念。
樫曲には旧北陸道が通っていて木ノ芽峠に通じているようです。木ノ芽川も流れています。この旧北陸道を多くの人が通ったのだと地区の人から聞きました。
樫曲(かしまがり)の由来
地名の由来は南北朝期の金ケ崎合戦に、村人が樫の棒を急造し、その棒が折れるほど奮戦し、南朝軍を救援したことによるとの口碑がある。「太平記」巻17(16騎勢入金崎事)に「深山寺ノ辺ニテ樵ノ行合タルニ」とみえる。集落の西北の内池見の小字大平から東浦海岸の田結に通ずる山道がある。近江・京都へ塩を運ぶ道として利用されたという(東郷村誌)。
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山際で道が交差する場所に瓜生保戦死の地と標された石碑が建ち、その脇には敦賀市教育委員会の説明文が掲げられています。
そこから敦賀市方面の山道に「瓜生保の墓」の道案内があるので、案内に順って山道を登りました。途中北陸新幹線を見ながらかなりの坂道を登ります。樫曲地区の共同墓地もありました。
坂道を登り切ったところの広場に「瓜生保の墓」があります。里見時成、瓜生保など多くの人が討死したこの場所で、暫しお念仏を称えて手を合わせ読経をしました。以前から一度来たかった場所です。
帰り道、坂道を下っていくと北陸新幹線のトンネルが正面に見えました。南北朝時代とは随分、周りの風景もかわったものです。
2024年8月16日付の福井新聞には敦賀・樫曲在住の方が瓜生保を後世に伝えようと冊子を発行されたことが掲載されていました。記事によると樫曲の地名の由来は、瓜生保を応援するために村民が樫の木を刀代わりに使い、木が折れ曲がるほど激しく戦ったことが記述されているそうです。
途中で見た花など
最期に樫曲地区は、浄土真宗のみ教えを熱心に聴聞するご門徒が多いところだということを記します。