よもやま話

日常の生活の中で生きるヒントを見つけたいと思います

足元に咲く野花

野菊

野菊

投稿しているのは主に観光名所ではなく 
住んでいる鯖江市片上地区の平凡な自然です

平凡な人間が
平凡な日常の
平凡な野花を
愛でる
そんな豊かな世界に惹かれています

4~5年前までは
年中無休 仕事中心の日々で
花や小動物のことなど
考える余裕もありませんでしたが
ふと足元を見たとき
知らない花や小さな生き物たちが
目にとまるようになりました

見ようとしなければなにも見えてこない
聞こうとしなければなにも聞こえてこない

身近な人の姿も見えていないし
身近な人の聲も聞こえてこない

それだけではありません
お念仏の聲も聞こえていなかったし
自分自身の姿も見えていませんでした

なにも分からないということが分かる
そんな世界があります

外見を飾り内は虚(むな)しい私は
外見を飾らない素朴な野花が美しいと
思えるような人間になりたいと思っています

そして足元に咲く野花を踏まないようにしたい・・・
宇宙は遠い彼方ではなく
私の足元にあるのかもしれない

一花一人一期一会

お念仏を称えながら聞こえてくる
阿弥陀仏の願いに導かれて生きたい

 

片上地区の自然

www.facebook.com

正覚寺の自然

www.facebook.com

www.facebook.com

www.facebook.com

 

現の証拠と御輿草

ゲンノショウコとミコシグサ

ゲンノショウコ(現の証拠)からミコシグサ(御輿草)になるまでを観察しました。
花の咲き始め-花が開ききった時-花が散り果実が熟するまで-果実が熟して5裂し種子を巻き上げて飛ばすー種子を飛ばした後の形はお神輿の屋根のように。

いましばらくの期間(10月~11月)は花と御輿草を同時に見ることができます。西日本は赤色が多く東日本は白色が多いといわれていますが福井県は両方あるようです。
開ききった花を見たければ晴れた日の正午前後の時間がよいと思います。

下痢止めの薬として使われ服用するとたちまちに効験が現れるので現の証拠と言われるようになりました。ドクダミ、センブリ、ゲンノショウコは日本の三大民間薬とされています。

鯖江市片上地区には縄文時代の遺跡がありますが、かたかみ縄文人も食用にしていたようです。

2023.10.21福井県鯖江

 

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp











ノダケ(野竹) 野武士のごとく

2023.10.01   野竹 節があり竹のように一本立ち 

2023.09.29  ノダケ(野竹)

2023.10.01

2023.10.01 3㎜ぐらいの花

2023.10.01

2023.10.03

2023.10.05 葉鞘が開いて花序が展開し始めた時 この時を待っていました!!

2023.08.24 開花前 全体の姿

2023.08.24 葉鞘に包まれた花序

食事に来た ヒメスズメバチ? そ~っと記念撮影!

 

ノダケ(野竹)セリ科シシウド属


山際に一本だけ咲いているこの花のことが、ずっと気に掛かっていました。いつ花が咲くのだろうか気になって時々観察。葉鞘が開いて、小さな花の集まりである花序が大きく展開する時を1ヶ月ほど待っていたのですが、やっとその時の様子を撮影できてとても感動しました。

花の写真を撮っているとき目の前にスズメバチが一匹やってきて、花で蜜を吸い始めました。敵意がなさそうだったので静かに花と一緒に記念撮影。あとで調べるとスズメバチはノダケが大好きだということ。それにどうやらこのスズメバチはヒメスズメバチという比較的穏やかな性格のスズメバチだそうです。ああよかった!。

それにしても、この花はなんて個性的でなんだろう。とても存在感があるし野性味も溢れている。

節があり真っ直ぐに一本立ちをしている様子は、まるで野武士のような印象。しかも黒みがかった紫色はいぶし銀のようにも見えます。近くに咲いていても気づかないことも。なんだかずーっと見ていたくなるような花です。

俳優でたとえるなら高倉健高倉健は映画「八甲田山」の撮影中は雪のなかでずっと立ちっぱなしだったとか。そうなんですよ。自分の責任を果たすまでは座れなかったのでしょうね。

歌でたとえるなら河島英五の「時代おくれ」。写真に映えることが求められる今、映えることを拒んでいるようにも見えます。時代の流れにのらないし時代に流されない、それもいいじゃないですか。それに群れないことも。

時代おくれ
ねたまぬように あせらぬように かざった世界に 流されず
目立たぬように はしゃがぬように~時代おくれの 男になりたい

いい歌だなぁ! 時代おくれの男になろう!

数日前、ノダケの様子を見に行ったところ、強い風雨のためでしょうか、根元から倒れていました。野に咲き、野に倒れる。それもこの花らしいのかもしれない。

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp



正覚寺の歴史

妙観山 正覺寺


正覚寺700年の歴史は片上地区四方谷の豊かな自然と、この土地で平凡な暮らしを営んできた多くの人たちに支えられてきた歴史です。数え切れない多くの人々によってお念仏の声が伝えられてきた歴史でもあります。
 
正覚寺の開基は了観という人です。了観の元の名は里見成純で鎌倉末期の武将・里見時成の子といわれています。里見時成は1333年、新田義貞の鎌倉攻めに従い鎌倉幕府を滅ぼしました。

その後も義貞のもとで足利尊氏と戦いましたが、戦いに敗れ義貞らと共に越前に逃れてきました。時成は1337年1月11日越前金ケ崎城の救援にむかった際、足利方の今川頼貞軍に敦賀で討たれたということです。太平記の『越前府軍金崎後攻事』に記されています。

非常に激しい戦いだったようです。戦死した時成の子成純は、四方谷の人に養われるところとなり、後に剃髪して了観と名告り四方谷の西南山麓禅宗の堂宇を建立しました。妙観寺と称し寺跡は今も残っています。

はっきりした史実は分かりませんが、時成の戦死は28歳頃と考えられ、幼子のいたことは想像できます。

成純が出家した理由は、仏道を歩む志があったためなのか、あるいは足利幕府の追求から逃れるためだったのか定かではありません。確たる史実が残っているわけではないので伝承の域をでません。
ただ想像をたくましくすれば父親の無慚な最後を見て、怨みを捨てて仏道を求めたのではないでしょうか。

武門の家を捨てて一人の仏弟子として仏道を歩もうとしたように思えてなりません。お釈迦様の「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」という言葉を思い起こします。

いずれにしても文殊山麓の四方谷には豊かな自然があり、親を失い深く傷ついた幼い子どもを、あたたかく受け入れた人々がいたのでしょう。可憐なカタクリの花をつつむ春の光のような風光です。

正覚寺は当初は禅宗でしたが室町時代(1500年代)浄土真宗に改宗しました。天正元(1573)年改宗して初代住職了純の時、織田信長の兵火に焼かれ妙観寺は焼失しました。またも戦乱に巻きこまれたのです。

その後2代住職純誓の時、妙観山正覚寺と称し現在のご本尊(阿弥陀如来)を安置するようになりました。この時に四方谷の正西に移住しました。明治初期までこの地にありましたが火災に遭い、明治16年に移転し建立したのが現在の本堂です。

掌で包むように、低い山々で包まれ最も奥まった場所に位置する正覚寺の風光は、あたかもすべてのいのちを摂めとり見捨てない、阿弥陀如来の心のようです。争いのない平和な世のなかをめざしたいものです。


2.023.09.27追記

週刊少年ジャンプ」で連載中の歴史マンガ
『逃げ上手の若君』が話題になっているようで
今日放送のNHKの番組「歴史探偵」で特集されていました

正覚寺開基といわれている里見成純の父・里見時成は
同時代(南北朝時代)の武将として新田義貞とともに
鎌倉幕府を滅ぼした青年武将だったようです
最終的には新田義貞とともに越前に逃れてきて
金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをします
その顛末は太平記に記されています
確かな資料が残っているわけではありませんが
伝承として伝えられています

今まで南北朝時代はあまり人気がありませんでしたが
少し変わってきたようです
応仁の乱も最近脚光をあびるようになりました
歴史好きの虫が動いてきました

勝者や強者の歴史ではなく弱者の歴史を繙きたいと思います

blog.hatena.ne.jp

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp

www.facebook.com

www.facebook.com

ja.wikipedia.org

撫子(なでしこ)さんありがとう

撫子さん 2023.08

撫子さん 2023.08




撫子(なでしこ)さんありがとう

撫子(なでしこ)さん 

あなたを植えたのは
2022年9月でした
それからあと 
秋も冬も春も夏も
いろんな色の花が
ずーっと咲いていました

大雨のときも
霜が降りたときも・・・

降雪のときは
雪が融けたら花がでてきて
驚きました

春になったら
もの凄く元気よく背が伸びて
花の数も
びっくりするほど増えました

梅雨の大雨と夏の酷暑にも
よく耐えてきました
氷点下から40℃までの
温度差にも耐えぬきました

でも 
もう頑張らなくても
いいですよ

色が褪せても 
枯れても 
萎れても

そのままで美しいですよ

1年間 
楽しませてくれてありがとう!!
花の縁が尽きるまで見届けますよ!!
花も人も同じ「いのち」だから

2023.08.17

www.facebook.com

www.facebook.com



 

龍谷大学世界仏教文化センター 研究セミナーに参加して

龍谷大学世界仏教文化センター 研究セミナーに参加して

先日、龍谷大学教授・中西直樹先生より研究セミナーの案内をいただきWeb参加しました。中西直樹先生には以前から正覚寺13代住職・里見了念のことを調べていただいているのですが、かなりわかってきたということです。今回のセミナーでは酒生慧眼の業績が中心でした。

中西直樹先生は正覚寺に調査のため来られたこともありますし、今まで随分多くの書籍や資料を送っていただいています。

里見了念は明治時代にや龍谷大学前身校の一つである「普通教校」や北陸高校の前身校「羽水教校」の実質的校長として創立に深く関わっていました。
今回の資料を見たところ、普通教校出身地別同窓生数では越前が62人と最も多く輩出しています。

本願寺教団を改革しようとした人たちでしたが、教団の保守回帰勢力に阻まれて、次第に教団の歴史からも忘れられていったようです。

その人たちがめざしたのは、教義や経典の理解にとどまるのではなく、教義を社会のなかで、どのように実践していくかを模索していたようです。このことは現代でも大きな課題だといえます。

 

私見 研究セミナーを聞き終えて

なぜ越前からそのように多くの人材を輩出したのか、研究セミナーを聞き終えて考えてみました。

私見ですが明治初期の越前は西洋科学を積極的に導入しようとする機運が非常に強く、藤島高校の前身である藩校の「明道館」や「明新館」では最先端の理化学なども教えていました。当時グリフィスも理化学を教えていました。

そのような状況を作り出すのに大きな影響を与えたのが、幕末の越前藩主松平春嶽橋本左内です。10代で大阪の適塾に学んだ橋本左内は国際社会や世界情勢を冷静に見抜くような見識を持っていました。グリフィスも橋本左内に大きな影響を受けたようです。

グリフィスは朝昼晩と絶えず生徒・学生と接触して、学校では科学、物理、ドイツ語、フランス語、英語会話、実験を教え、家では訪ねてくる学生をはじめ、住み込みの学生に歴史、法律等を話して聞かせ、化学、生物を教えていたようです。

藩校明新館は武士以外にも解放されていたので、おそらく多くの僧侶も学んだり影響を受けたものと推測されます。

グリフィスの生徒の一人に鯖江市松成町満願寺出身の今立吐酔(いまだてとすい)がいます。ペンシルベニア大学に留学した今立吐酔は、帰国後さまざまな要職に就き昭和初期に鈴木大拙とともに『歎異抄』を日本で最初に英訳しました。

北陸高校の前身「羽水教校」もこのような潮流のなかで創立されました。教義の理解だけでなく、語学や科学的知識も学んで世界の仏教徒と交流できる人材の育成を目的としたのでしょう。このことは現在の北陸学園関係者もあまり知らないことだろうと思います。「羽水教校」は「普通教校」の福井版といってもよいのではないかと考えています。

明治期の福井県におけるこのような状況は、周知されていないように思います。明治初期の福井県における護法一揆のことも分からないことが多くあります。

いずれにしても明治期の本願寺教団改革の中心的役割を果たそうとしたのが、正覚寺13代住職里見了念だったようです。

正覚寺13代住職 里見了念略歴 平成29年「正覚寺だより」より

 

www.facebook.com

www.facebook.com

花はす公園 その1

福井県南越前町 花はす公園 

彩り豊かな世界の蓮130種の饗宴

2023.07

 

www.facebook.com

facebook.com

福井市を焼きつくした福井大空襲

『福井大空襲体験画集(第三集)』編集・発行者 林正夫

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

福井大空襲体験画集

※ここで紹介した体験画は一部です。

本願寺福井別院(西別院)周辺における悲惨な状況の詳細は、

下記の『福井空襲・午前一時』稲木信夫著をご覧下さい。

 

門徒にお聞きした福井空襲の体験
門徒のお宅にお参りをすると、さまざまな人生体験をお聞きすることがあります。
そのなかでもある女性から聞いた福井空襲の体験談が忘れられません。その方の実家は福井市松本で本願寺福井別院のすぐ近くです。

本願寺福井別院はおそらく焼夷弾(しょういだん)が最初に投下された場所だろうと推測されます。無差別絨毯爆撃(むさべつじゅうたんばくげき)で福井市は火の海になりました。夏のことですがら遺体の腐敗も激しく異臭が漂っていたようです。

 

体験談要旨
福井空襲の時は5歳、家族から玄関のつんばり棒を外すように言われた。防災頭巾はなんの役にもたたなかった。大勢の人が郊外に向けて逃げた。逃げるときは遺体を踏み越えて逃げた。

途中で家族と別れてしまったが後で会うことができた。自分から数人後ろに宝永小学校で給食を作っていた女性の方が、子どもをおんぶして逃げていたが子どもが死んでいることに気づかずに、必死で逃げていたことを覚えている。

現在の西別院の一角(尾上公園)の場所に小さな川があったが、そこにふとんを被って逃げて亡くなった人が多数いた。現在の尾上幼稚園の場所に墓所がありその場所で各所からトラックで、運ばれてきた遺体が焼かれ異臭が漂った。トラックは何回も遺体を運んだ。戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない。

 

幼いときに頭上から焼夷弾が落ちてきて火の海のなかを逃げた人の体験談です。5歳とはいえ鮮明におぼえておられる様子でした。「戦争はどんなことがあっても絶対にしてはならない」その言葉が強く胸に響いてきました。

私は当時福井教区講師団の一員でしたが、その体験を伝えることを約束し、いろんな資料を調べて2015年(戦後70年)に福井教区のさまざまな研修会や法座で、非戦平和の大切さを訴えてきました。私の両親は大正の生まれですが戦争で一番苦しい思いをした世代です。私たちの世代が語り継ぐべきものだと考えています。

 

※絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)とは絨毯を敷きつめるように、ある地域をすきまなく徹底的に爆撃すること。


総務省の記録 福井市における戦災の状況(福井県
1.空襲等の概況
昭和20(1945)年7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術が採られるようになった。

敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市の中で最も規模の小さい市であったが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていた。

当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれており市街地東部の河東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙の川にはさまれた川中地区にひろがり、2時間程の爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。

 

1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となった。B-29 127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落とされたのである。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市沼津市に次ぐもので、2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人を超える被害となった。

 

県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練が行なわれていたが、大規模な都市爆撃の前にはまったく無力で、すでに日中戦争では、日本軍によって重慶などを目標とする都市爆撃が行なわれており、非戦闘員をも区別なく、戦禍に巻き込む近代戦の悲惨さを県民は目の当たりにすることになったのである。

 

その後敦賀市には、小規模であったが30日、8月8日と2度の空襲があり、特に8日のものは、9100メートルの高空から、昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した原子爆弾の模擬弾であったことが、後に明らかになった。

 

www.soumu.go.jp

『福井空襲・午前一時』稲木信夫著より
 
空襲第一弾が、西別院にもおちたという。

やはり、前の川で死者がおおくでた。神明神社のばあいといかにも似た事情がある。ただ、ここでは、市の郊外へ逃がれようとした人びとが、ようやくここまでたどりついて、川へはいったというばあいもくわわっている。
寺をこすと、田んぼなのである。だが、その人びとは逃げられなかった。西別院の諸堂は炎上していた。あの表門ももえていたのかもしれない。いくらひろい境内でも、焼夷弾が雨とふるなかでは安全ではない。うろうろしていてはかえってあぶなかった。神明の森のようなものはなかったのだ。といって、寺の横をとおりぬけることもむずかしかった。町一帯がはやくも火となっていたからだ。
 
当時、その西別院に僧侶としてすごしていた川口政信さんは、西別院駅の北側の田んぼの、欅の木の四、五本ならんだところに、布団一枚をかぶってのがれ、そこに空襲がおわるまでいた。川口さんは、仏さんをはこびたしたり、自分の持ち物があきらめられなかったりして逃げおくれたほうであったが、寺のうしろへ逃げたし、また逃げるほかなかったのである。
 
その川口さんは、寺の前で死んだ人びとの数を、二、三十人以上と話す。

これについては、寺島定志さんの記憶では、いくらすくなくみても、四、五十人はいたという。

内宮(うちみや)はまをさんは、大名町の家からふたりの娘さん、十六才の茂子さん、
四才の清子ちゃんと西別院へ逃げて来た。大名町は市の中心にちかい。ふつうにいえば、西別院よりも、西方の東別院をめがけたほうが逃げやすいのだが、内宮さんは家業がはき物の卸し商で、西別院のうしろの野っ原に店の倉庫があったのである。

かねての打ちあわせがあってか、それともその方角に火の手があかって心配してか、わざわざ距離のあるところを行き、どうぞこうぞ西別院の前まで来た。寺はもえている。そこで、その横手へ行こうとした。しかし、そのあたりも火だ。
 
するとそのとき
「そんなところへ行ったらあかん、こっちへはいんなさい、こっちへ」
という人声をきく。川にかかった門のまえの橋の下から呼んでいる人がいる。
 
川といっても、そこは三、四尺の巾、ドブ川で、わずかな水があったが、ながれてはいない。それでも、はやくはやくと必死に呼んでくれている。
 
内宮さんはこわかったが、ちゅうちょする間もない。呼び声にひかれて、ふたりの娘さんがさきになって、わずかなすき間のようなところへはいっていってしまった。いまはともかくそこへ身をかくすのがよいかもしれなかった。僑の巾は三間以上はあったろう。内宮さんも娘さんにつづいて、もぐるようにし
てはいった。

その瞬間、直撃弾がおちた。
かあちゃん
内宮さんは、娘のそのひとことをきいたように思う。
まったくの偶然に、あとになってはいった内宮さんだけが奇跡的にたすかった。朝になって、ふたつにわれて、くずれた橋の下になりながらも、ふと意識がもどったのである。
 
その内宮さんは、この橋の下だけで三十八人死んでいたと話している。内宮さんのふたりの娘さんもその中にはいっている。
 
中田石男さんは、国民学校六年生。夏休みをまえに、ひとり郊外のおばの家に一泊。遊びにいったこの晩に空襲があった。
中田少年は。焼け跡にもどり、神明神社の前でピラミッドになった死体の山を見たが、父毋たちの姿をさがしてさらにひきかえし、西別院へ行った。一家にめぐりあえず、寺の前の川にそって、川にちらばった人びとの死体を見やりながらあるいていた中田少年の思いは、そのときどのようなものだったろう。
ふと、彼はたちどまった。川の中に焼けたトタンがふきとんできていて、そのしたに、見おばえのあるカバンと着物がちらっと見えたのだ。さては、と思い、トタンをはぐってみた。はたして、二才の弟をおぶった毋と四才の妹をおぶった父の姿があった、四人がかたまって死んでいた。傷はなかった。トタンがもろにあたっだのかもしれないが、やはり煙りによる窒息死であったろう。
父中田棯三十六才、毋ちよの三十四才、妹信子、弟勝利。

東郷千代子さんも、家業ははき物屋で、当時江戸下町西組(現在、宝永四丁目)と呼ばれたところに店をかまえている。
一家は九人家族。十四才から赤ちゃんまで、男女三人ずつの六人の子どもがいた。そしておばあちゃんがいた。
なかなか借りにくかった荷車がようやく手にはいって、あすはその荷車に家財をつけ、さしあたっておばあちゃんと子どもたちを疎開させようという、その夜の空襲であった。
その夜、おばあちゃんのフサさんは、かわいい孫の一郎(十二才)、二郎(六才)のふたりをつれて、西別院のほうへ逃げた。千代子さんは、残った四人の子とともに、そのあとにつづき、西別院のうらの田んぼめざして逃げた。ご主人は、町内会長をしていたので、あとに残った。
毋千代子さんについて逃げた十四才の登美子さんは、そのようすをこう話す。登美子さんは三才の弟の手をひき、となりに妹がいる。
「ほんとにそのときはね、空を見ると、もう、雨のようでしょう。焼夷弾がぱあ-つと落ちてきたのが、ぱっとひろがって落ちてくるんです。ほれがもう、ザーツ、ガーツ、ザーツと。もう、音にびっくりしちゃって。すごい音でした。……西別院の前まで行ったんです。そのうちに、学校でならった、『伏せる時にはこういうふうにするんですよ』つていわれてたのを思い出して、『ちょっと、伏せなあかんわ。こんなに大きな音して、もう、気持ちわるいわあ』ちゅうて、ちょうど西別院の前の、あの、前門(表門)つていうんですかね、門の、あそこで伏せたんです。あの、そしたら、そこにぱあ-っと降ってきたんですね、焼夷弾が。んで、妹が、となりで直撃をうけたわけなんです。」
たまたま「伏せ」をした妹の米子さんに、直撃弾がおちた。たちまち米子さんは火だるまになり、頭のほうから、防空頭布の上からもえだす。即死である。
このとき千代子さんも頭に油をあび、たちまちやけどをする。びっくりして、まだもえていなかった門前の家の中にかけこむ。その家の人もいて、そこで布団を借りる。娘さんたちの手をとり、布団をかぷり、ふたたび外にでる。そして、なんとかして寺のうしろへ行こうとする。あいつぐ焼夷弾。ひろがる火の中を夢中でつっきる。
ご主人は、ひとり一歩おくれて西別院へむかう。すでに火はひろがっていたが、道のりにくわしかったこともあり、行くところどころの家の中をかけぬけて、火の中を通らぬようにして逃げた、そして、西別院のうらで、やはり火の中をつっきった千代子さんらとうまく出会う結果となる。
しかし、いちはやく逃げたおばあちゃんと二人の息子さんは、たすからなかった。朝になって探しにでた東郷さんたちは、やはり寺の前の川でいっぱいの人が死んでいるのをしらべていく。そして、水ふくれになって。ひとりたおれているおばあちゃんの姿を見つける。つづいて、そこから二、三間はなれた川の中で、息子さんの一人を見つける。もうひとりの息子さんは、それからまたさがして、西別院の境内の防空壕で、死んでいるのを見つける。
 
おばあちゃんが西別院のほうへ行ったのは、日頃お詣りをかかさなかった人だけに、そこへ行けばたすかると思っていたのではないか、と東郷さんは推測する。だが。この三人が、まるでばらばらだったのはなぜだろう。
うえの息子さんは子どもながら体がおおきく、力があり、すもうがつよかったという。そこで、三人いっしょに家をでたが、自分ははやく逃げたいけれど、おばあちゃんがいる。
それでも、寺の前に来たときには、すこしはやくなり、境内にはいってしまっていた。一歩おくれたおばあちゃんと下の息子さんは、そのときなにかの都合で境内にはいれず、そのまま川の中へはいった。下の息子さんは六才で、おばあちゃんからはなれられず、いっしょになった。そしてすぐそばに直撃があったかもしれない。下の息子さんはふきとばされたのだろう。

中学生宮崎肇さんは、空襲がはじまってすぐ、爆弾がおちてくる中を、妹とふたり、西別院の前の通りへでる。通りはちょうど押すなおすなの人であった。
ふと見つけた、寺と寺のあいだの、ニメートルぐらいの幅の通路が、宵崎さんをたすけた、まだもえていない。その通路をぬけて、うらの田んぼにでたのである。そこでも焼夷弾がおちてくるので、もう必死になって畷道をかける。
ようよう安全と思えるところまできて、まもなく、一時はなれてしまった妹と会える。
父もくる。
だが、毋がこない。母はまだ赤ちゃんの妹をおぶっているはずである。
不安の中で夜が明ける。焼け跡へはいると西別院はすべて焼けおちている。くずれたところからパチパチと炎がたっている。
寺の前あたりまでくると、道にやけどをした人が二、三人寢ている。そのうちの一人が。
だれかの名まえを呼んでいる。ちかずいて顔を見たが、母ではない。
そうこうするうち、西別院の裏門へきた。裏門と呼んだ門は、表門とならんでいて、いわば通用門のことである。
くずれおちた門のなかに四本の鉄の棒がつっ立っているのが見えた。
「あれは……」
と宮崎さんの父は見すえて。
「乳母車じゃないか」
とさけんだ。乳母車の残骸の鉄材の骨組みだけがある。しかも、たしかに父が自分で修理した針金もついている。まちがいなく家の乳母車だ、と父は見たのだ。
「そうかもしれん、はいってみよう」
と、みんながまだすこし熱いのをがまんして、二、三歩中へはいった。まちがいなく、家の乳母車だった。そこに、黒こげの姿があった。のっている瓦をよけていくと、まぎれもなく母がでてきた。母はあおむけのまま、まったくもえきっていた。その背の下に、足だけがもえて、着物がそのまま残っている妹の体があった。上にのっていた人が母であることは、そのふたりをむすびつけていた帯のかけらがあったことでまちがいなかった。
直撃があったのだろうか。母のさだをさんは、乳母車の手をはなして、二才の勢津子ちゃんともどもあおむけにたおれた。そこへ、裏門の屋根がくずれてきた。……それにしても、なぜ乳母車をひいて逃げたのだろう。その中に何かをいれたのだろうか。さだをさんの心をどうわかってあげるべきだろうか。

 

 

終わりに

7月19日は福井空襲の日です。
日本全土にB-29爆撃機による焼夷弾の無差別絨毯(じゅうたん)爆撃が繰り返されました。
福井空襲においては本願寺福井別院も爆撃され地獄絵のような様相でした。
現在ウクライナにおける戦争は他人事ではないように思います。

ダンマパダ129  
ブッダの真理の言葉・感興のことば』中村元訳 岩波文庫
すべての者は、暴力におびえ、
すべての者は、死をおそれる。
己が身にひきくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)784頁
御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ



『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著を読んで

6月23日
太平洋戦争の終わりの頃
沖縄は日米の最後の決戦地になり
多くの民間人が犠牲になりました

『私のひめゆり戦記』宮良ルリ著
「二度と私たちのような戦争体験をしてはならないのです」
戦争は人間を人間でなくしてしまうのです
「日頃の常識はまったくなくなってしまいます」
「軍隊は住民を守りません」
「年寄や子供たちのように弱い者ほどひどい目にあうあのです」

ひめゆりの女学生たちが学校生活を送った校舎前には
相思樹の並木が続いていたそうです

戦争は最大の暴力
二度と戦争をしてはいけません
そんな思いを新たにしました

www.facebook.com

www.facebook.com



御文章のはなし

五帖一部御文章 
本願寺派寂如宗主の貞享元年(1684)開版本
各帖の巻末には宗主の名と花押があります

この地域には同時代の御文章がよく見受けられます
各家に仏壇を安置するようになった頃と同時期です
時代区分でいえば江戸時代の元禄時代
徳川幕府の宗教政策の影響も多分にあります

写真の通り和綴じの本ですが
手で持つ部分 指でめくる部分が 
ボロボロになり かなり汚れています

日夜 田畑を耕す手で持つのですから
当然汚れます
200年間ほど 毎朝 毎夕読めば
このようになるのでしょう
この紙の汚れを土垢(つちあか)とよんでいます

これは長年読んできたあかしなのです

法務をはじめた頃 各家にはこのような御文章が置いてあり
各家によって 字体も異なり 何が書いてあるのか
まったく読めないことがよくありました

福井県史 通史編2』 
各種の教典類のうちでは冊子形態の御文が最も汚れている。
各頁の左右の端には、必ずといってよいほど手垢・土垢が付着しているからである。「土」とともに生きた当時の坊主衆・門徒衆がじかに手にした教典、それが御文だったのである。

www.library-archives.pref.fukui.lg.jp

www.facebook.com

www.facebook.com

正覚寺と太平記

里見時成

福井県坂井市丸岡町にある称念寺では、
今年 新田義貞の686回忌の法要を勤めるようですが、
新田義貞とともに越前に逃れて、金ヶ崎の戦いで壮絶な討ち死にをした、
正覚寺ゆかりの武将、里見伊賀守時成も686回忌になります。

伝承では里見時成の子、里見成純が、正覚寺(元は妙観寺)の開基とされています。

幼子が討手を逃れ片上の地にかくまわれ出家し、禅宗の草庵をつくったのが後の正覚寺です。

父親や親族たちの壮絶な討ち死にを目前にして成純は、
怨憎を超えてさとりの智慧をうる仏道を求めたのだろうと思います。

争いのない、怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝える、それが正覚寺が創設された所以でしょう。

今の世界にも争いが絶えません。怨親平等(おんしんびょうどう)の願いを伝えていきたいと思います。

 

2023.09.27追記
里見成純と勢至丸

私は里見成純と幼少の頃の法然聖人の体験が重なるように思います。

法然聖人は幼少の時の名は勢至丸といいました。
平安時代末の保延7年(1141)、勢至丸9歳の時、稲岡庄の預所(荘園の管理者)をしていた父の漆間時国は、明石定明の夜襲にあい亡くなってしましました。

父の時国は死に臨んで次のような遺言をしたといわれています。

私はこの傷によって死んでいかねばならない。しかし、決して敵を怨まないでほしい。
もし、おまえが敵を討つならば、親から子と憎しみの連鎖は絶えることはないだろう。
私が死にたくはないのと同じように、いのちある者は誰でも死にたくはないだろう。
私は傷つけられると痛いと思う。人もまたそう思うだろう。
私はこのいのちを大切だと思う。人もまたそう思うだろう。
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息むのだということを心に刻んでほしい。
そして怨みの心をすてて、ともに救われる仏道を歩んでもらいたい。
それが私の願いだ。

 

ダンマパダ5
実にこの世においては、
怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、
ついに、怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。

里見時成については

太平記 越前府軍並金崎後攻事』に記されています
その他には日本通信百科事典など

ja.wikipedia.org


ja.wikisource.org

https://wiki3.jp/japan_dictionary/page/2099

www.facebook.com

doubou.hatenablog.com

doubou.hateblo.jp

doubou.hatenadiary.jp

www.facebook.com

www.facebook.com

 

噫(ああ)花よ

境内の椿

噫(ああ)花よ

椿の花がこんなに
美しいものだとは知りませんでした

今まで約45年間 
仕事(兼職)と介護に追われ
ただ ただ 
がむしゃらに生きてきました

与えられた役職は
できるだけ断らずに引き受け
ほとんど年中無休の状態で
花を見るゆとりもありませんでした

健康を害し 
体力も気力も衰えた今ですが
花を愛でていると
心が落ち着くし 

何の脈絡もなくお聖教の言葉が
思い浮かんできます
不思議なことで、
なぜだか自分でも分からないし 
説明もできません
花の前で呆然(ぼうぜん)としています

機縁が熟したとしか
いいようがありません

SNSでは
花や小動物の写真ばかり投稿して
疑問に思われると思いますが
私の耳底には
お念仏の声が聞こえてくるのです

それも言葉では説明できないし 
なぜだか分かりません 
不可思議です

できることならば
役職も肩書きもすべて辞し
お念仏に導かれながら
残された日々を一日一日
丁寧に生きたいと思うだけです

どうぞ
お許しをいただきたいと思います

合掌

 

www.facebook.com

www.facebook.com

   

桜の木よ ありがとう

福井県鯖江市西山公園のソメイヨシノ 2023.02.17

2月の鯖江市西山公園

1本のソメイヨシノ
かなりの老木のように見えました
近くにはコモを巻いた木もあります

見ていると痛々さも感じてきて

聲(こえ)をかけたくなりました

桜の木よ
今までよく風雪に耐えてきたね
毎年きれいな花を咲かせてくれて
ありがとう

花の咲いていないときにこそ
桜の木そのものの美しさを愛でたい

リンゴ農家の木村秋則さんは
よくリンゴの木に声をかけてています

樹木や花にも聲(こえ)をかければ
伝わるのではないかと思っています
樹木や花もまた語りかけてきます
耳をすませば
その聲が聞こえてくると思います


ともに本願の大地に樹(た)つ朋(とも)だから

www.facebook.com

www.facebook.com

 

 

花の聲(こえ)を聞く

ひっそりと咲くオウレン

オウレン
草丈数㎝・花径約10㎜ 

この花を撮るときは全身を曲げ
地面の上に顔を置くようにして撮ります
そしていつも思います

人間社会も最底辺に立たないと
踏まれた人の痛みの声は
聞こえてこないのだろうと

その声がカルナー・呻(うめ)きで
その声を聞こうとするのが大悲(だいひ)です

阿弥陀如来の慈悲をつかさどる菩薩を観世音菩薩といいますが
観世音とは世のなかの聲を聞き

心に思いうかべ観(み)て、心に思いうかべ知ろうとする菩薩です

衆生の呻(うめ)き声に共感するのが慈悲の心です

 

狭い山道の路肩にひっそりと咲くオウレンは
「踏まないでほしい!」と
つぶやいているように思います

聞こうとしなければ
なにも聞こえてきません
そのようなこともあり
アルバムの名前を「花の聲を聞く」としました

オウレンは
そんなことを教えてくれる花です

写真アルバムは下記Facebookをご覧下さい

www.facebook.com




www.facebook.com


www.facebook.com




境内 泉水の四季

境内の泉水


この泉水の水は湧水(ゆうすい)です。池は落ち葉が堆積して以前とは浅くなりましたが、多くの生き物の水飲み場で自然のビオトープです。湧水は境内の小川に流れ出てやがて海に入り潮となります。海がいのちを循環させる力の源泉のようです。

親鸞さまの言葉には「海」が実に多く書かれてあるのも納得できます。

池の周辺には四季折々の山野草が美しい花を咲かせます。文殊山麓でこれだけの大きさの水場はないでしょう。

春になるとウグイスが鳴きますが、昨年は数ヶ月の間直近で鳴き続けていました。
春から初夏にかけて多くの渡り鳥が早朝からにぎやかです。モリアオガエルが産卵し卵塊をつくりますが、そのモリアオガエルを好むアカショウビンもやってきます。サンコウチョウの鳴き声も・・。

そして池の中ではカワニナが泥中に絵画を描きます。やがてホタルが飛び始め夏には蝉の大合唱。秋には色とりどりの紅葉・黄葉。そして冬には雪化粧。

泉水の周りはいろんなものが融け合った渾然一体(こんぜんいったい)の場所です。

www.facebook.com

www.facebook.com